2. Audience experience / 2.1 Perception and expectations
この記事はAESによって2020年に公表されたイベント騒音と音響暴露についての文献(Technical Document),"Understanding and Managing Sound Exposure and Noise Pollution at Outdoor Events"についての和訳やこの文献を輪読する勉強会で得た知見などをまとめたものです。
Overviewなど各章の構成と概説については初回の記事をご覧ください。
今回は第2章の観客の体験と音の暴露に関する問題について主にライブサウンドを積極的に聴取する側の観客やスタッフ側についての分析です。平たく言えば難聴のリスクや健康面への影響についての話ですが,あまり知られていない生理学的な背景も含めての概説が書いてあります。
はじめに
サウンドシステムの発展に伴い観客はより大きな音圧レベル(より広い帯域幅)にさらされるようになり,その結果イベント参加者の健康と安全を脅かすリスクとなっています。
この章では良い音を提供すると同時に長時間にわたって有害な音圧レベルにさらされないようにすることに焦点を当てています。観客が期待する音とは何か,そしてそれらとライブサウンドでの音の暴露との関連を調査し,測定手法に関連する規制を解説しています。
2.1 Perception and expectations
過去 20 年間にいくつか行われた研究[5-14]では,何をもって観客は高品質で楽しめる体験と感じるか,観客は何を期待しているかについて,周波数応答,時間応答,全体的なレベル,そして"パンチのある音"について重点的に調査しています。ここではそれらから得られた知見をまとめます。
低周波数の明瞭度の重要性
2013年に行われた研究[6]では,8つの異なる屋内ライブイベントを調査し,測定と観客へのアンケートを組み合わせて観客の音への評価について支配的な指標は何か調査しています。(もちろん客観的に何をもって高音質かを完全に定義することはできません)この研究の結果では,観客の評価は低周波数の初期減衰時間(EDT)*に強く影響される傾向にあり,評価の高いライブイベントの行われた会場では低周波数のEDTが約0.5秒であったのに対し,観客評価の低かった会場は低周波数のEDTが1秒以上だったようです。(会場の違いや音楽ジャンルも違うなど信頼性の高い比較とはいえません。これに限らずライブサウンドの研究は,その性質上,条件を合わせて対照させることが困難であるため,客観的とは言いにくい研究も少なからずあるようです。)
別の研究[7, 11]では,ライブサウンドの印象の75%は低周波数の明瞭度に関連しており,特に63 Hzのオクターブバンド付近でできるだけドライであるべきとされているようです。
ただしこれら[6,7,11]の研究は残響特性が重要となる屋内の会場で行われたもので,屋外では別の要件を考慮する必要があります。
*初期減衰時間(EDT)とは
残響時間T60は音場が定常状態から60 dB減衰するのに要する時間であることはよく知られています。実際はS/N比を60 dB確保することは難しいため,20 dB減衰した時間を3倍するT20や,30 dB減衰した時間を2倍したT30が用いられることもしばしばあります。初期減衰時間はこれと同様に定常状態から10 dB減衰するのに要する時間から求める残響時間(10dB減衰した時間の6倍)といえます。(明確な定義や測定方法はこちら)
初期減衰時間は人の主観的な残響感をよく表していると言われます。
パンチのある音と低周波数
観客評価の支配的な知覚属性は"パンチのある音"であると考えられ,これについて定量化のための指標が[12]で提案されたようです。この研究では,低周波数成分がサウンドシステムの「パンチ力」に大きく影響することが示されました。(先述の低周波数の明瞭度や屋内の会場のEDTとどの程度関連しているかは完全には確認されてはいませんが,強い相関がある可能性は大いにあります)
低周波数の話に移ると,2008年に行われたある研究[7]において,大音圧の低周波数音は性欲や食欲などの基本的な本能を制御する脳の部分を刺激することが知られているという面白い記述がありました。しかもこれについては2017年の大規模な研究によっても示されています[8]。この研究では観客への調査によって,人々が大音圧の音楽を好む理由について4つの仮説を示しており,
大音圧は覚醒・興奮を誘発する。
大音圧が外部からの音や些細な思考をマスクすることで,観客が非日常感を味わうことができる。
大音圧環境下では会話をするために人との距離が近くなり機密性が高まるなど,社会的に密な関係が生まれやすい。
大音圧は観客のアイデンティティを強化する。
これらの仮説は音質というよりも非常に高い音圧レベルの音に曝されることによるマスキング効果や脳への刺激,社会性の変化によるものです。ただし[8] の研究はナイトクラブでのライブサウンドについてのものなので,大規模な屋外イベントでも同様かは研究の余地があります。(この文献中にでてくる事項は研究の余地だらけです)
大音圧についての聴覚生理的な考察
最近の研究では,内耳の前庭系(主に平衡感覚を維持する役割を持つ)の一部である球形嚢の機能が,大音圧が好まれる理由と関連があることが示唆されています[14, 16, 17]。これらの研究では,球形嚢は200 - 400 Hzにおいて最も感度が高く,LA=90 dB以上で強く興奮することが示されています。この条件下ではジェットコースターに乗っているような感覚になる,いわゆるハイな状態になるようです。これらの現象は蝸牛ではなく前庭に起因しているため,"意味を持つ音"ではなく,"力(刺激)としての音"となります [18]。要は情報としての音というよりも,刺激としての音を好んで大音圧を求めているのではないかということです。
ポピュラー音楽のライブイベントでは,一般的な聴覚だけではなく上記のような事項も考慮する必要がありそうです。
再生レベルについて
再生レベルについて,(多くの研究でも既に明らかになっていますが)文献[7]ではイベントが進むにつれて音圧レベルが上昇することを示しています。理由の一つとして,イベントのヘッドライナーがサポートアクトよりも大音圧であるべきという習慣(暗黙の了解)が考えられます。もう一つ大きな理由として,イベントが進むにつれて観客やサウンドエンジニアの聴覚が一時的な閾値シフト(TTS:Temporary Threshold Shift,平たくいえば耳慣れですがこれについては後ほど深掘りをしています)を起こし,聴覚感度が低くなることが挙げられます。つまり,イベント中に常に知覚する音量感を維持するには,イベントの経過による耳慣れに応じて音圧レベルを上げていくことになります。
音圧レベルの制限をサポートアクトとヘッドライナーで区別する場合は,TTSなどによる音圧レベル上昇の抑制が可能であり,これはアメリカでのケーススタディ [21] で示されています。
飲酒と音圧レベルの上昇との関連
さらに面白いことに,飲酒が音圧レベルに与える影響に関する研究も行われています[9]。この研究では,飲酒量と好みの音圧レベルとの間に正の相関があることが示されています。(つまり飲酒量が増えればより大きな音を求めるようになり,大音圧になれば観客も多くの飲酒をするようになるということです)
これはレストランの BGM について行われた研究(テンポが速く音量の大きい音楽は客がより早く食事をするというもの)と関連しているようです[19, 20] 。これは私としては少し懐疑的ですが,アルコールが好みの音量に及ぼす影響は男性および地方で最も強い影響を及ぼすとのことです。
この研究では音楽ジャンルとの関係については調査されておらず,大規模な屋外ライブ音楽イベントではなくナイトクラブについての研究なので,やはり研究の余地があります。(特に大規模イベントではサウンドエンジニアがオペレート中に過剰に飲酒することは昨今非常に少ないことも考慮するべきです)
観客の音への期待について
ライブサウンドの観客はどの座席でも強力で高品質なサウンドを届けることを当然だと考えています。これには,高い明瞭度,透明感,広帯域の振幅特性(≠フラット),広いダイナミックレンジなどが関わっています[13]。さらに現代のポップ音楽のコンサー トではほとんどの観客はハイパワーなサブウーファーによる強烈な振動を期待していますが[22],これについては実際に観客が好んでいるのか,それとも単に慣れた(あるいは中毒になった)のかはやはり研究の余地があります [14]。
近年の観客の高い期待はSpice Girlsの再結成ツアーで特に顕著に見られ,ツアー始めの数回のコンサートでは,観客から明瞭度の低さについての苦情があったようです[23]。明瞭度の低さは照明や映像などによってスピーカープランが制限される,アーティストの演出面での動き(スピーカの前に立つなど),大規模なスポーツスタジアムの劣悪な建築音響,観客の叫び声や歌い声のレベルの高さなど,多くの要因が関係していると思われます。
観客の期待については,現代のSR技術で十分に達成することができますが(ただし全てにおいて適用可能な万能システムはありませんし,良い音というのは非常に主観的なので観客全員を満足させることは難しい問題であり,エンジニアにとっては常に向き合う必要のある課題です),真に問題なのは上記のような観客の期待に過剰に応えた結果,多くの人々の健康や安全を損ねたり,騒音問題へ発展してしまうことです。会場内外の全ての人を守るために常識的な対策を講じるべきであり,観客と演奏者への悪影響を最小限にしなければなりません。
まだまだつづきます。まだ2章の中でも1/4程度です。
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