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私の生存戦略
唐突だが、私は頻繁に孤独を感じる人間だ。頻繁に、とはいうものの他者の孤独を感じる平均的な頻度はわからないが。
そもそもこの孤独感の正体はいったい何だろうか。私を翻弄するものの全貌を妙に暴きたくなった。この一年ほど思考し続けて、途中経過だが記しておきたい。
孤独感にはフェーズがある
子供のころに感じた孤独感は「集団からの分離」だろう。孤立を恐れ、何かしらのコミュニティに所属しようとする。
高校生くらいになると、今度は無理をして合わせること自体に違和感を覚え、共感性の低い集団をしがらみと感じるようになる。私はどちらかというとグループで仲良くするというより、友人とは一対一の付き合いが多いのも、これが理由だろう。
社会人になってからのステージは、「選択的孤立」だったように思う。無理をせず、一人をあえて選ぶようになる。ただ、この時点ではまだ、他者と分かり合えないことを受け入れる度量も、孤独を引き受けるほどの覚悟もなかった(いや、もちろん今もまだ覚悟などないが)。他者とのつながりと一人の時間と、バランスが取れていたわけではない、そのとき楽な方に傾いた、と言う状態に過ぎなかった。
そして次のステージはまさに今だ。自分の孤独感を自分で引き受けるステージ。もう一つ孤独を進化させる必要があると自覚した。しかしここで、これまで以上に「孤独感」を強く感じることとなる。
結婚離婚を経た今、他者と共に在るためには、依存や執着をせず、別の個体としての自立性や自己分化を高めることが大事だと学んだのだ。私は未熟だった。知らず知らずのうちに寄りかかりすぎていた。これまで自分はそこそこに「一人が得意だ」と思っていたが、間違っていたし、恥ずかしくなった。
孤独に耐えうる精神力を養うことは、人と共に在るための必要条件だった。結婚するしない、恋人の有無や友人の数に限らず、人は一人では生きていけないからこそ、それが必要な力と理解できた。
分かり合えないことを前提にする
こうして私は今、また改めて孤独と向き合うことになったが、「自己分化」というのは想像以上に難しく高め方が未だわからないでいる。人の心の内というのは想像をはるかに超えるものと捉え、また、こちら側もすべてを肯定されるべき、理解されるはずという前提を捨てること。今はこの訓練中。
具体的にはこうだ。①肯定されたいという前提で話さないこと、②何を話すべきかではなく、何を話さないでおくべきかを相手の視点で考えて峻別すること。この二つ。
これは自己分化の「知性」と「情緒」の「情緒」の取り扱いだと思う。気を付けたいのはあくまで自身の情緒の部分だ。相手が私に見せてくれる情緒は受け止めたいし肯定したいと思う。
私はまだまだ未熟だ。だからこそ私自身の生存戦略としての「孤独の引き受け方」と、その途中経過としてここに記しておく。