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ひろしま神話(Toshi 山口)<第4話>

さぶらう

 さぶらうとは、さむらいの語源で、上の者に仕えると言う意味がある。漢字では、候う、と書く。武士のことを指すが、英語では、ふつうブシとは言わず、サムライと言う。この言いかたが一般的である。武家はサムライハウスと言う。
 明治維新以降、藩の象徴だった「城」の持つ役割はどのように変わっていったのだろう。その前に、もう一度、明治維新とは、なんだったのかを問い直してみたい。これはなかなかの難問である。
 「城」をキーワードに読み解いていくのは、軽率であろうか。
 Z・R氏の書いた最新の論文を読み進めていくうち、ふとそう思うようになった。
1871年(明治4年)に施行された廃藩置県によって、「藩」は「県」と言う名称に改められた。ひろしまで言えば「安芸国」から「広島県」へと改称されたわけだ。最後の国主は浅野であった。江戸の幕藩体制下にあっては、「城」は藩の象徴で、その周辺の界隈には藩政を担う多くの機関が存在したと思われる。藩政が失われてしまうと幕藩体制下で「藩」と言ういわば地方行政のトップであった「藩主」もその機能を失った。代わって明治新政府から勅令を受けた、官吏である「県令」が県に派遣され、その職に就くことになる。
 「藩」とは一体何か。英語では、「ドメイン」。領主、領土を意味する単語である。現在の広島市を含め広島県一円は、「安芸国」、ないし「芸州」と呼ばれ、廃藩置県前は、徳川幕府の直轄地であった。 
 廃藩置県直前まで、この徳川幕府の直轄地を浅野家の代々の当主が領主として任命され治めてきた。幕藩体制とは国政を担う幕府と藩政を担う藩の二体制によって日本と言う国家を統治しようとする政治システムである。武家と言う家と家との関係によってその制度は運営され、維持されてきたと言えるだろう。家を辿れば、氏でもあった。「頼山陽」の「日本外史」は、その武家の歴史を克明に著した書であった。
 「藩」を廃し「県」に改めるとは、どのようなことを言うのであろう。
 ここ広島県でいえば、幕藩体制下、徳川幕府の直轄地である「安芸国」、ないし「芸州」を「広島県」に"置換"することである。
 明治維新とは復古であった。天皇を国の最高機関とし、国政全般をこの機関に復元しようとする政治改革である。廃藩置県とは、国家行政の中央への一極集中を目的とした統治システムの構造転換であり、単にエリアの呼称変更に過ぎなかった、と言うわけではないだろう。狭義には、「武家」から「官僚」への行政機構の転換と言うこともできる。ただ、これによっていわゆる国の形、「国体」まで変わったかと問われると、返答に窮してしまう。何を以って「国体」と呼ぶかと言うことになってしまうからだ。勉強会でもそこが問題になった。
 このように、「藩」とともに「家」と言う制度が政治の表舞台から消えてしまった。武家と言う階級も一緒に消滅した。サムライは身分を失い、日本人の精神を美化するのもとして言葉だけが残った。日本は、武家による伝統的な文化国家から、一部のエリートによる一極集中の近代国家へと大きく変貌を遂げていったわけだ。近代国家と対等に対峙するために行った苦渋の変革だったとも言える。江戸時代後期に漢学者の長男として生まれた「頼山陽」が、このような日本の近代国家の姿を想像できただろうか。そこは、はなはだ疑問である。「頼山陽」が漢文によって著したのは、中国に倣った伝統的な国家観における武家の歴史であった。では一体、日本の近代化への時代の動きと「頼山陽」が描いてみせた「日本外史」に現れる歴史観とはどのように結びつくのだろう。
 さて、この大胆な転換期の過程で生じた混乱の沈静化を図るには、天皇を頂点とする明快な、新しい国家の計が必要だった。
 日本は、近代国家に倣って、富国強兵を国是とし、中央政権の一握りによる強いリーダーシップで、ひたすらこの道を邁進することになる。 
 人びとは、そのとき、軍靴の足音を、文明開花の音として、実感したのではないだろうか。
 不思議なことに、この国家像は、誰もが疑念を挟むことのないまま、熱病のように全国に猛威を振るい始めるのである。さらにそれはエスカレートしていった。なぜだろう。
 「県」は次第に地方としての独自色を失い、列強に伍す近代化を強力に推し進める中央政権の下部機関として軍事運営の枠組みの中に組み込まれていった。そして日清戦争の折り戦略的要衝にあった都市は総じて「軍都(ミニタリーシテイ)」としての機能を担うようになっていく。
 太平洋戦争終結まで、それは続いた。
 戦前「軍都」と呼ばれた都市は、日本に数都市存在する。
 ひろしまは、その典型であった。
 旺盛で広範な産業の裾野を持つ軍需に支えらたこの町は、軍事産業城下町の様相を呈し、かってない好景気に沸いた。人口流入も著しく、当時ひろしまの都市規模は急速に拡大し、多くの人びとがその富の分配にあずかった。 
当時のひろしまの商店街を撮影した映像を観ると、人混みをかき分けて店頭の商品を買い求める人びとの顔に悲壮な影はない。
 なぜ、明治に始まり、人の一生の長さでしかないこの短い間に、そのような大転換が可能であったか。また、その時、人びとはどういう思いで毎日を過ごしていたのだろう。多くが、次々と目の前に起こる現実を歓迎し、熱狂的に向かい入れている。人は求めているものを与えてくれるものに従うと言う、社会心理が働いたのだろう。政治学者は、後世になってそれをファシズとか、全体主義と呼ぶのではなかろうか。
 勉強会の外国人に日本語の「軍都」に該当するような言葉があるかと尋ねたところそのような英語は存在しない、と言う返事が返ってきた。論文では、「ミニタリーシティー」と表現してあるが、直訳だろう。「軍都」に対応する英語は、海外の都市のカテゴリーの中に存在しない、と言う。これを丸ごと信用つもりはないが、日本人の何者かが意図を持って創った造語だろうと言う結論になった。
 「軍都」とは、富と強兵を謳う当時の軍国主義下に相応しい都市像実現に向けてのキャンペーンスローガンであった、と思える。繰り返し聞くと耳に残る、この「軍都」と言う造語は、時代のムードを煽る流行語のように、国中の都市に流布していったのではないだろうか。
 ここでもう一度読み直してみたいのが「頼山陽」の「日本外史」である。書いてある内容はともかく、一節を声に出して読み、そのリズムを感じていただきたい。そこに人びとを惹きつけた「日本外史」の真骨頂がある。それともし、時間が許すなら、フランス革命に影響を与えたと言われる「ジャン・ジャック・ルソー」の「社会契約論」をもう一冊付け加えたい。
 ところで、江戸時代後期、「城」は万が一の有事に備えて必要なだけ兵糧を蓄える倉庫同然になっていた。
 主人を失った「城」は明治になって外地に赴く兵士の戦意を鼓舞する、つまり大義の前には、己を捨てて臨むサムライ精神のシンボルとしてのみ存在理由を与えられ、その威容を人びとの前にみせていた。サムライは、軍国主義に仕える兵士として新たな身分を与えられた。
 藩の権威のシンボルだった城は、このように役割を変えて明治に復活した。
 広島城も、例外ではない。
 原爆投下直前まで、この城は、全国から人々を呼び寄せる軍都広島を代表する観光スポットであった。ところで「城」と言えば、天守閣のある建物だけを想像しがちだが、それは「城」と言う全体の一部の建物にしか過ぎず、外堀を含めた辺り一帯のことを指すのが一般的な定義らしい。ひとくちに「広島城」と呼ばれる一画は、思いの外広いのである。Z・R氏の論文によれば、軍事主義の啓発と戦意高揚の促進を目的とした催事がこの城を舞台に、盛大に行われたとある。
 今は、どうだろう。
 ひろしまの歴史を知る数少ない観光スポットの一つとなっている。
 原爆で焼失した「広島城」は、復興と歴史のシンボルとして戦後すぐ短期間の内に再建された。現代工法で蘇ったこの城には、ひろしまに江戸時代が存在したことを物語る貴重な資料が保存され、全国の歴史愛好家がいつでも気軽に立ち寄れる場所になっている。
 著しい復興ぶりを祝う行事が、さまざまな機会を捉えて、城周辺で賑やかに行われた。戦後15年も経たないうちにひろしまでは大復興祭が開催されている。
 日本の復興を牽引したのは、平和国家創造をスローガンとし、「早い、便利」を歌い文句にする大量生産型の民需産業とその供給を効率良く推進する社会基盤の整備である。
 これについても、ひろしまは、いち早く追従していった。
 「城」は、江戸時代に想いを馳せる博物館として整備され、平和を願う人びとが訪れる憩いの場所となった。
 歴史を尋ねる文学者は「悲しみの町の城」とでも題して平和の尊さを象徴的に謳いあげ、一つの作品を仕上げるだろう。
 それより、今日のひろしまの現実の姿とは、相いれない矛盾する事実が過去にあったことをこの「城」によって知らされたとき、その対比に人々はどのような感想を持つだろうか。あの時代は、時の勢いだったから仕方がなかった、と呟くのではないか。英語圏の史観では、両者は、因果の関係にあると説明するだろう。彼らには、人は歴史の傍観者ではなく、当事者であると言う自覚が強い。

 日本の「城」は明治以降、近代と言う時代の流れの中に、ただ漂うだけの寡黙な存在になってしまった。Z・R氏は、芭蕉の俳句、「夏草や 強者どもの 夢の跡」を引用し、今日の日本の城を評している。
 氏は、この論文で原爆投下以前と以後のひろしまの都市像の変貌ぶりを雑駁に論じているが、ポイントは明解である。声に出して読むとひろしま人には耳の痛い内容だ。と同時に、ひろしまほど日本の、また世界の時々の情勢に翻弄された近代都市も珍しいのではないか、と考え込んでしまう。
 外国人にとって日本の城めぐりとは、サムライ精神巡礼の旅と言えるようで、スペインなどキリスト教の国で見られる古い教会巡礼の旅に似ているようだ。そしてその壮大な木造建築の様式や構造にも強い関心があるらしい。

 春の城
 二面を写して
 そこに建つ


(注)広島城に関する明治時代の記録他
1. 広島城敷地内に設けられた説明板によれば、廃藩置県後、広島城本丸内に広島県の庁舎が置かれたとある。
 
(2021.10.03)

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