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ひろしま神話(Toshi 山口)<第2話>

2 もののあわれ 

  「本2居宣長」の "もののあわれ"と言う表現が随所に現れる論文に出会った。英語に置き換えることが困難らしく、そのままMONO NOAWAREと表記してある。著者のR.T氏は、アメリカの大学に籍を置く日本の古典文学研究者であり、翻訳も手がけている。
 漢詩の韻律をできるだけ損なうことなく、英語に置き換えようとする挑戦的な試みがこの論文ではなされていた。例として挙げていたのは、菅原道真の詩の英訳である。ヨーロッパには、ソネットと言う定型詩があるが、漢詩とは全く異なるはずである。我々にわかるのは、その程度でしかない。
 この著者は、「菅原道真」と「頼山陽」の両者を時代の隔たりはあるが、日本の古典を代表する優れた文学者として研究対象にしていた。
 今日では「菅原道真」といえば、もっぱら学問の神として合格祈願の対象となっているが、詩歌のレジェンドでもある。蛙と思える不思議な生き物が描写されている詩があった。これには、あとになって驚いた。明治時代に盛大に行われた「菅原道真千年祭」についてもこの論文は触れていた。
 「本居宣長」は、国家のアイデンティティを「古事記」「日本書紀」に求めようとする国学を広め、復古主義を提唱。「菅原道真」の忠心のぶりは日本人として、国の最高機関である天皇に忠誠を誓う人びとの規範となった。これらは、明治の、あるいは日本の文化史を語ろうとするとき話題のどこかに必ず出てくる人物である。
 しかしその「菅原道真」の名だが、今日我々のようなごく普通に生きる一般人の日常の話題の中に登場することはまずない。毎日を仕事に慌しく追われる身であれば、それも、致しかたなかろう。「本居宣長」に至っては、名前こそ知っているものの、よほどの歴史通でない限り、ほとんど馴染みがない。しかし、昨日があり、今日があるという史観に立つ外国人からすれば、俄に納得しがたいことである。日本人にとって歴史とはテレビや映画などメディアを媒体として提供されるエンターテイメントとしての産物である一方、外国人にとっては歴史とは時間を横糸に言葉を縦糸にして織り込まれるタピストリーのようなものである。どうやら彼らは、「出雲風土記」に関心を持つことはあっても、戦国武将の城取り合戦には、およそ無頓着である。
 いくぶんかの、自国、あるいは郷土の昨日のこうした類いの歴史を、今日の日に語れないようでは、グローバル化の進展著しい今日では、「あなたは、だれ」と問いかけられてしまうのがオチである。

 後日、試しにと思って、近所に「菅原道真」に関わりのありそうな神社を勘に頼って訪ねてみた。近所とは徒歩で行ける範囲である。朝と夕の1日2回30分を目安に散歩することにしているが、そのついでに足を伸ばせば辿りつけそうな距離である。勉強会でいくらか知識を蓄えた後のフィールドでの復習とでも言おうか。順番に英文を音読するだけの地味な勉強会であるが、このような楽しみも個人的に加わった。勘は的中して、平和公園側から平和大通りを横切り、土谷病院の裏手に入ると、ビルの角に小さなお宮が、ひっそりと佇んでいた。予め見当をつけておいた場所だった。狭い敷地に「菅公千年祭記念碑」とある石碑があった。台座を含めると人の背丈以上の高さはあろうか。空鞘神社の摂社との説明があった。 
 現在の中島町。旧町名、天神町の一角に、その石碑はある。

 1907年(明治35年)は、「菅原道真」の千年忌にあたり、この年「菅原道真千年祭」が盛大に行われた。日本がファシズム一色に染まり始める。中島町のお宮の一角にある「菅公千年祭記念碑」は、ひろしまにもそのような時代が明治の後半にあったことをひっそり告げている。その頃、日本は国を挙げて日清戦争戦時下にあり、さぞかしこのまちの戦争気分も高揚していたに違いない。石碑は無言だが、その痕跡である。しかし、これもよほどの近代史通でも無い限りそのことを知る人は今や一握りではなかろうか。「菅公千年祭記念碑」が、平和記念公園に至近の路地裏に現存していることを知っているとなると、さらに少数であろう。
 論文のことが念頭に無ければ、散歩の途中にこの石碑があったとしても振り返えることもなく、ましてやその場に歩みを止めることはなかっただろう。

だれが偲ぶ
千年祭とある
菅公の石碑

路地裏の
歴史の記しに
陽をあてる

 これに気を良くして、市街地一円にある「菅原道真」を祀ってありそうな神社をざっと調べてみた。
 市中心部から徒歩と市内電車、バスを利用すれば行ける距離内に該当しそうな神社が、3個所あった。


1.尾長神社 
JR広島駅の新幹線口から徒歩で行ける。坂道を尽きたところに高い石段がある。

 腰痛を
 耐えて辿るや
 伝説の跡

 石段の勾配
 往時を偲びつつ
 這い登る


2.天満宮 
広電天満町電停近く。天満町商店街沿い。

3.衣羽神社 
広電バス江波停留所から徒歩。本社の傍に、小さなお宮がある。それが、「菅原道真」を祀る神社である。

 江波にある
 衣羽と呼ぶ神社に
 迷い込む


 次に、「本居宣長」の足跡をひろしまにある神社に訪ねるとすると、どのようになるだろうか?
 仁保に、「邇保姫神社(にほじんじゃ)」と言う古い神社がある。バスと徒歩で行ける。さっそくここを訪ねてみた。この神社の由緒が書かれた説明版の冒頭に「神功皇后の故事にならって島の鎮守として建立された」とある。「神功皇后」とは、「日本書紀」に登場する名である。多くの勇ましい武勇伝のある、女傑だ。広島湾を見下ろす山の頂上にこのお社はあるが、当時は沖合に浮かぶ島だったらしい。「本居宣長」には辿り着けないが、気を落とすこともないだろう。懲りないことだ、と言い聞かせば済むことだ。
 このお社には、朱砂(しゅさ)にまつわる伝承がある。これは初耳だった。朱砂とは水銀を含んだ鉱物で、猛毒だが、防腐剤の原料になる。この辺りにそのような鉱物の採れる鉱山があったのだろうか?

 朱砂の伝説
 頂きにある神殿を
 仰ぎみる

 江戸の町並(竹原市「町並保存地区」)

 ロシア人のS・T氏とアメリカ人のJ・M氏とに同行して竹原市にある「町並保存地区」に行った。ロシア人のS・T氏は日本の大学でロシア語を教えている親日家で、日本の近代史を海外の時の事情と重ね合わせて考察できる視点がある。母国語であるロシア語はもちろん、日本語、英語も堪能で、職業柄であろうか、漢文にも明るい。西洋の砲術をいち早く日本に持ち込んだとされる「高島秋帆」についてまとめた彼の論文をこの勉強会でもテキストとして使った。J・M氏はフリーランスの比較宗教研究家で、「儒教、仏教」に、やたら明るい。彼がこの勉強会の主宰者である。

 机に座ってテキストを反芻するのもいいが、それだけは息が詰まった。気分転換を兼ねて、論文に登場してくる場所に赴き、そこの空気を吸ってみたくなった。場所が変われば、頭も切り替わる。出不精には、屋外でのちょうどいい運動にもなる。
 往復は、S・T氏の運転する自家用車に便乗させてもらうことにした。高速と旧道とでは、道を走るすがらの、窓からの風景が異なる。ドライバーの意思を尊重して、ずいぶん遠回りになるが、眺めのよい旧道を行くことにした。幸い、会のメンバーで、東広島市に住む20代の若い女性が案内役をつとめてくれると言う。 
 彼女とは事前に時間を決めて、現地で合流することにした。

 「頼山陽」が生まれたのは大阪江戸堀、現在の中之島辺りだが、ここ竹原は、「頼山陽」の父の時代、さらには祖父の時代まで遡って、頼家のルーツを訪ねることができる。頼家の先祖は、英文によると、竹原より早く栄た三原に起源がある、とある。いくら専門家とはいえ、外国人がよくそこまで調べたものだ。
 それはそれとして、我々のような一般ツーリスト向けの簡単な英文の観光ガイドブックを探したが適当と思われるのがどうしても見つからない。案内役を引き受けてくれた若い女性の説明に任せることにした。多くの外国人に日常から接しているだけあって要領がいい。仕事にも少しは役立てたいのか、英語の習得にも熱心だった。
 S・T氏は歩行を杖に頼る年齢だし、J・M氏は巨漢ときている。しかし、ここぞというときは、宝物を探し当てたと言わんばかりに、歩幅が大きくなった。2人とも、生まれは日本の年号で言えば昭和である。 
 彼らの背中を眺めながらあとをついていくこと決めた。

(2021.10.01)

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