ひろしま神話 ー英文で著された近代日本史に触発されてー <第1話>
文|短詩|イラスト(Toshi)|写真(Toshi, MJ)
I 昨日、今日
歴史とは物理法則に従えば、単なる時間の流れに過ぎない、と割り切って考えることにしている。
人びとは、あるときは歓喜に酔いしれながら、またあるときは悲嘆にくれながら、またあるときは回想に耽りながら一刻一刻のときの物語を時間の経過とともに紡いできた。今日までのその一括りを後になってひとこと歴史と呼ぶのであろう。ときにそれらの物語は連続しており、ときにそれらは、不連続で断絶しているばかりか、対象をなしている場合さえある。「頼山陽」は、それを一言、時勢と呼んでいる。
ひょんなことから広島市内に長年住んでいる、ある一人のアメリカ人の呼びかけで、"英語で書かれた日本史の文献を読む勉強会"が発足した。
彼の口コミだけの勧誘で集まった国や地方自治体、および民間の教育機関で主に英語を教えている外国人教師や海外との文化交流に携わっている機関の担当者が発起人となり、日頃からひろしまの文化や歴史に関心を寄せる在広の一般人を募った。会のメンバーのうち半数が外国人、残り半数が日本人と言う構成で勉強会はスタートした。
なぜか海外留学や海外勤務を終えて帰国したばかりの若い日本人女性や退職を間近に控えている中高年の参加が目立った。これは予想外であった。海外で生活を続けていて、日本人として何か思うふしがあったのだろう。自己自身のアイデンティティを問い直そうとする、国籍、年齢、性別、社会的立場を超えた、いわばユニバーサルな「学活」の場になった。ひろしまの教育機関で、多くが日本人の生徒を相手に英語教育を担っている外国人教師にとっては、生活の基盤や習慣を母国とはおよそ勝手の違う日本と言う他国の事情を強いられるわけで、何かと戸惑うこともあるらしく、この国についてより理解を深める機会を待っていたと言う声もあったようだ。
ひろしまの人びとは原爆投下直後の事柄については、すこぶる反応が敏感である。しかしそれ以前のことを話題に取り上げると、やたら焦点が曖昧になる。敏感であることは大切だが、ともすれば先入観に陥ることなく歴史を俯瞰視しようとするナイーブな目を曇らしかねない。歴史と言うものを論理的(歴史には昨日があり、今日があり、明日があるとする論法)な根拠に基づきながら、すこぶる長いスパンで解釈しょうとする態度に慣れている外国人知識層にとっては、不自然に映るらしかった。そうかと言って、歴史と言うものを記述する手立てを持たなかった神話の時代の物語にヒントを求めることもあった。言われてみれば、ひろしまの歴史を学び、語ろうとする際、その起点をどこに置くか、という問題が、確かにある。"昨日"をいつの時代に設定するかによって"今日"をいかに語るかが変わってくると言うわけだ。敢えて論理的と言う言葉を持ち出すまでもなく、当然と言えば、当然である。
また、「広島」と、声に出して言うとき、テーマによってはその言葉が示す範囲も、明確でなくなる。「行政区分」として「広島市」、「広島県」は並列して存在するが、制度上の便宜的な区分であり、いわゆる郷土とか地方の歴史や文化について話しが及ぶとき、意識の中に線を引いて示したような境界を思い浮かべているわけではなかろう。都市名、区名、町名、地番では区別されていても生活コミュニティがそれによって分断されないのと同様である。地図の上から消えてしまった旧町名の由来は、今そこに住む人々に、血の通った多くの示唆を与えてくれるだろう。引きこもごもの人間ドラマを町一つ一つに残している。それらもまた歴史と言う時を重ねた立派な文化遺産である。最新の地図を重ね合わせて見るのも楽しいかもしれない。そこかしこにひろしまのアイデンティティはある。
立場によっては「広島市」は「ヒロシマ」とカタカナになる。この「ヒロシマ」は、もう少し範囲を広げて使われる場合もある。ひろしまの悲しい歴史を世界に向けて語ろうとすれば、そのような表現にもなるだろう。
英語ではHIROSHIMAだ。
在広の外国人は、今いる自分の地を、アルファベットでこう表記する。わずかこの9文字で、今や全ての国で通用する。
「郷土」、「地方」とは、一地域の共通した土壌にある文化的な連帯を言うのではないだろうか。しかもそれは多様である。この文化とか、連帯とかのいずれかに陽が当たらなくなってしまうと、「郷土」とか「地方」という言葉はただちに意味合いを失ってしまう。日本の歴史を扱う英語の論文に、しばしばエグザイルと言う単語が登場してくるのが、気になった。
誰であれ、自分たちの町について深く知ろうとするのは、そこの住人として、ごく自然な感覚だろう。しかし、第二の故郷とか、住めば都と言う言葉は、今や死語になりつつある。生まれながら住んでいる土地であれ、移り住んできた土地であれ、土地に歴史の痕跡を残さない場所は存在しない。あなたの町の界隈の歴史を知ることは、日本の歴史を知ることに繋がるし、海を超えて世界の歴史とも無関係ではない。おしゃれで快適なマンションの一室に住んでいるあなたの足元にでもある。歴史探訪に大切なのは、性急にではく、クロノロジカルに、謙虚に、しかも時間を費やしてである。この知の探究に、それにも増して大切なのは、根気よく観察する労力とそれに劣らぬ想像力だろう。
勉強会の回数を重ねるごとに、英語圏における史観にもいつしか慣れ、うっかりすると素通りしてしまいそうなふもとの歴史の跡にも再び目が向くようになった。
この勉強会では、ここひろしま地方一帯がまだ安芸とか芸州と呼ばれていた江戸時代中期ないし後期から今日の令和まで、すなわち日本近代史にまつわるエピソードをその対象とした。英語で書かれたテキストの文脈に沿いながら日本人共通の通念ともなっている良識も要所要所で、これに織り交ぜた。こう書いてしまえは簡単だが、両者には、埋め難い大きな溝もある。一言で言えば背後にある文化の違いだ。
テーマとしたのは江戸後期に生まれ、代表作「日本外史」を著して幕末から明治の先覚者に大きな影響を与えたと言われ、ひろしまとも縁の深い「頼山陽」である。「頼山陽」はときの人ではないが、この歴史上の人物とは偶然としか表現しようのない出会いがあった。近代日本の政治、文化、社会、思想の変遷を考えるとき「頼山陽」は、避けて通れない人物である。外国人にとっても同様の認識のようだ。テキストとしたのは「頼山陽」に関わる研究に携わっている外国人の書いた英文の学術論文である。そしてこのカテゴリーの英文に親しむため、海外で発表された日本史、文化史に造詣の深い研究者の手による論文にも目を通すことにした。日本人の平均的な歴史観に容赦なく踏み込んでくる極めてデリケートな問題を含んだ論文もある。
「頼山陽」については、決して多くはないが、今日でも日本人による論文、小説、研究書が出ている。また必要であれば、古書店やオンラインで、戦前に出版された関係図書を比較的安価に入手することができる。しかし勉強会の趣旨からこれらを参考にすることは、意図して、最小限に留めた。外国人が「頼山陽」と言う人物、作品をどのように捉えたか、あるいはどのように捉えるかがここでのテーマである。また武家が基礎素養として重んじていた「儒学」にも注目した。これはJ・M氏の最も得意とする分野であるが、「儒学」を英語で理解するとなると戸惑うことしきりである。下手な予習など時間の無駄であることがすぐにわかった。
「頼山陽」は、多くの作品を残しているが、漢文で書いている。会のメンバーのほとんどが漢文の素養に乏しい上に、さらに英語での解釈も同時に求められるのだから、想像以上に険しい道のりである。
実践面にも考慮した。"歴史オタク"を自認する国内外からのツーリストとの交流サロンとなることである。垣根を取り払って歴史談義を交わす民間の囲炉裏サロンのようなのもを想像した。
広く日本の、あるいはひろしまの歴史、文化に関心のある人間が集まったとはいえ、いかにもレベルの高い取り組みである。強いて言えば、日頃、郊外の山野くらいしか歩いたことしかない初心者のヒッチハイカーが、高山でのトレーニングも積まないまま、見切り発車で、いきなりエベレストを目指すようものだった。
勉強会の会場は、M・A氏の計らいで、「頼山陽史跡資料館」となった。
英語で挑む
勉強会
無謀にも山陽から
「頼山陽」は近代日本史に強烈な光と影とをもたらした人物として知られている。
いや、そうではないだろ。歴史と言う時の流れが「頼山陽」の才能に光と影を与えたのではないか、と思う。勉強会を始めて間もないうちに、そう強く認識するようになった。
(2021.09.23)
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