2024年。元旦は石川はじめとした大地震、二日は、羽田空港炎上。そして今日。私の身近では、小さな頃からお世話になった大切な人が肺炎での危篤から亡くなり、同時に去年SNSで出会った、何度か通話もしたシングルマザーの友人が「自殺をする」と言ったきり返信が来ない状況だ。(死ぬ死ぬ詐欺なんて絶対しないような人だし、ずっと真剣に悩んでいたのを知ってたので、そこらへんのメンヘラとは全く違う深刻の状況である。)

 こういったケースは生まれてから訪れたことがない。私と言えば、どこか意識が半分遠のいたような心境であり、それどころか、気がづけば久しぶりにnoteを開いて文章を綴っている。胸が痛く、悲しみに参ってしまいそうなのに、どこか他人事なのである。

 思えばSNSでもそうだ、世の苦しみに心を痛め、一生懸命誰かに励ましの言葉をかけたり、支援したりしている人々もいる。そういった情勢をボーっと眺めながら、まるで夢の中に迷い混んでしまったかのように、痛覚が麻痺した無敵モードのように、穏やかに息をしている。

 これが何を意味しているのかわからない。客観的に見て、ちょっとサイコパスじみている。というか。ね。

 死というものが、あまり深刻に思えなくなっている。それは生命の当然の終結である。そう自然が囁くように。

 ただ少しの後ろめたさがあるのは、まだ人間らしさへの余地が残されているような気がしたので、さらに大きな悲しみがやってきてこの感情が書き消される前に、言葉を残したくなった。

 コロナウイルス1波の時にも思ったのだけれど、ネガティブなニュースに動悸をしたり、世の中の闇を自分ごとのように受け止め、傷つく人が多すぎる。感受性もアンテナが張りすぎては、また逆効果なのだ。 

 何も言わずに、スマホを閉じて、自分のことだけを考えればいいのに。意識に闇が侵入し、不安でいっぱいになる。ならば足手まといだ。不安から来る優しさを吐き出す前に。自分を愛したまえ。自然体の自分で、また誰かを守れるように。今はただただ自分を愛するべきだ。

 自分のキャパシティを越えた優しさは、誤解を恐れず言えば偽善だと思っている。自らが限界ならば、共倒れと化し、余計に状況が悪化してしまうだろう。それは、自分の実力不足だ。自分にはまだ誰かを助ける力なんてない。無力だ。それを認める。そういった自分を受け入れて、今の自分にできることを、小さなことをこなしていく。SNSではそれができないが為に、感情的になってしまう人があまりにも多い。

 悔しいなら、力を蓄え、もっと遥か未来にやってくる、不幸な出来事に対抗できるように。力を蓄えるしかない。一人でも多く、誰かを守れる自分になるために。

 今はただ、悔しい時期だ。感情的な優しさしか出せない時なのだ。大して実用的なことはできない時期なのだ。それでも精神的に寄り添える。今はそれ以上自分に期待しないことだ。その悔しさは未来に精算されるだろう。

 私は。どんな世界になろうと。どんな時代になろうと。必ず生き残る。どんな手を使おうとも。この世界で生き残ってみせる。 死を間近に見つめながら、どこか冷静に。心の奥底で燃えあがる炎を感じて。


Mr.J-Boy


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