ベーレンライター版の「田園」を読んでたら
ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージングが一致しないのだ。一度めと二度めとでは、違う歌い方を求めているのだ。
ただ、このフレージングの実現をまじめに考えているとテンポ感が変わってくる。特に21小節めからの3小節間を括ったスラーはある程度のスピードを要求するものである。
そのように捉えてみると、この主題の骨格は二つの小節をセットにしたダウンとアップの組み合わせでできていることが分かる。9小節めから1stvnが歌い出すメロディは
①8 9 ②10 11 ③12 13 ④14 15 |①16 …
こう考えると、9小節が単独のスラーであるのに10〜11小節めがに小節が繋がっていることを合理的に説明できるだろう。9小節めはアウフタクト小節として、10小節めに係っていることがわかる。
この骨格はそのまま旧版のフレージングに当てはめてみても納得がいく。
このようなフレーズのラインを支える骨組みを見つけて初めて、このフレーズの歌い方が把握できるのだ。逆に小節の中を二つで執るような演奏ではこの息の長い旋律をフレージングを守って演奏することなぞ到底できない。まさに鳴らすのが精一杯だろう。というか、楽譜の歌い方を無視して朗々と音を響かせ絶唱している、あの忌まわしい姿が目に浮かぶ。
楽譜よりも聞いた記憶で演奏してしまうのはこういう失敗をおかしがちなのだ。
メトロノームのテンポよりもフレージングから考えるテンポ感の方がよほど説得力がある。どう弾くのか、どう息を使うのか、という具体的な問題からの方がテンポ感は現実的なものになる、というのがいつもの実感なのだ。
「作者」の示すメトロノームの数値はヒントにはなる。けれども、それは指定値ではないように思っている。楽譜に記録されている運動の状態の方がより、テンポ感を伝えてくる。フレージングはその呼吸そのものだからだ。
フレージングからテンポ感を考えるという問題を特に感じるのはD759の3/4allegro moderatoだろう。6〜8小節目がタイで括られていることが、この曲の歌い方を最も明確に伝えてくる。「未完成」のロマンやイメージだの、伝統だの、インスピレーションに関する蘊蓄など、あるいはマジョリティな演奏スタイルとか、そういう外部情報よりもよほど説得力がある現実なのだ。
op68第5楽章のクライマックスでの低弦のフレージングも、音圧レベルで考える前にこの楽譜のフレージングから、この作品はどう歌いたいのかを探るべきなのだ。190小節めからの場合と219小節目からの場合とのその違いなども大いに参考になる箇所だ。特に興味深いのは後者だ。そのスラーのためのアウフタクトである八分音符をどう弾くのか、それを考えているとこの楽譜の望む立体感が見えてくるだろう。だから、楽譜以外の情報よりもずっと現実的な問題として、取り組めるのだ。
マジョリティに寄るのは安全なのかもしれないが、楽譜の現実から作品を見つめたいものだ。