フレーズの尻尾、または触角を捕まえる
K.488の6/8adagioが難しいのは小節の中に「2+1」を二つ聴いてしまうからだ。それでも和音の美しさのために「聞けて」しまう。だがそれでは「6/8拍子」で書いてある作品の目的は達せない。
ひとつの小節の中を
「2+1」+「2+1」
ではなくて
「2+1+2」+1
で捉えられなければ、この6/8adagioの楽譜は目的を達せられないのだ。
もう少し踏み込むと
1 | (2+1+2)+1 | …
というアウフタクトの鼓動の上にあるリズムが骨格にあることに気がつかねばならない。もちろん、楽譜にはこのアウフタクトはない。しかし、例えば2小節めの6拍目は3小節めのアウフタクトとして機能している。その「尻尾」あるいはその「触角」を捕まえるとこのメロディを支えているものが見えてくるのだ。
あるはずの1小節めのためのアウフタクトが無音であることがこのメロディの魅力の秘密なのだ。そのためにメロディの重心は2小節めの頭に向かう。1小節めは2小節めに向かう。そしてその波の動きを呑みこみながら3小節めはその運動の名残のまま4小節めに向かう。
ここには小節番号でいうと
0 | 1 2 3 4 | 5
という小節の4拍子が減衰しながら動いていく過程がある。
そして、この大きな4拍子運動は
①0 0 0 0 | ②1 2 3 4 | ③5 6 7 8 | ④9 10 11 12 | ①13…
というさらに大きな4拍子を形成して13小節目に至る。ここで木管はその運動のインパクトを受けて、シンコペーションのメロディを立ち上げる。
この6/8adagioが3/8に陥ってしまう原因は「長い音符」で踏み込んでしまうことだろう。それが「複合拍子」という誤解を生む原因だ。
だが、本来は6拍子も、5拍子も、あるいは12拍子も、小節ひとつを如何に分割するかの問題である。小節をひとつのものとして捉えられないのは「感覚」に騙されているからに他ならない。感覚を乗り越えて、自分の意識の問題としてこの「理性的な拍子感」を自分のものにできなくてはならない。
イデアを見ようともしないひとにはこの問題は永遠にわからないかもしれない。でも「酸っぱい葡萄」のキツネになってしまったら、惨めなものなのだ。