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「楽譜のまま」と「作品への共感」

K.550の第1楽章2/2 molto allegroの提示部の最後の小節は、その反復の際、小節の4拍子の1拍目の位置にある。だが、そのまま提示部に進む際は、そこを起点として小節の5拍子を形成する。

この100小節めから105小節めへかけてのスリリングな空間は見事だ。105小節目で伴奏が主題のフレーズに追いつく瞬間はハラハラとさせられる。ここに5拍子拍節。置いていることは、単なるシンプルな作品に終わらせない工夫を感じる。

さて、この5小節間にスリリングさを感じさせるのは、ここに不思議な浮遊感を感じさせるからだ。単純に4拍子拍節の連続ではないこともそのひとつだ。だが、もう一つの仕掛けは102小節めから104小節めにかけて、進行系のリズムボックスが無いことも大きい。

この第1主題の拍節は、単純には4小節目に落ち着く仕掛けになっている。この拍節感に疎いにとにはこの第1主題の微妙さはわからないかもしれない。この楽章では、その微妙な骨格のこのフレーズをいくつかの違うパターンで用いている点も面白い。以前触れたように、冒頭ではその骨格と音楽の進行がずれている点に面白みがあった。
さて、この展開部の開始の場面でのスリリングさは変拍子の挿入と、リズムボックスの外しにある。5拍子による帰着予想点の引き伸ばしが、着地点にリズムボックスが戻る瞬間の安心感をいつそう引き立てる。

この演出に対して、「テンポルバート」な瞬間を感じるのだ。103小節めから104小節めをインテンポのまま進行させることは、あまり作品に共感的ではないように感じる。

拍子感を変えて、帰着点を引き伸ばすこと、音楽の推進性をわざと外すことの意味を共感的に考えれば、この小節の5拍子の空間にらテンポルバートが見えるのは当然なはずだ。

ここに「楽譜に忠実に」の問題の落とし穴がある。楽譜に書いていないテンポ変化を認めないという姿勢は表面上は間違えてはいない。「コンクール的なフェア」な立場にある場合は、怖くてできない冒険だろう。この場合、暴挙である、と言われてもおかしくはない。

だが、研究の上での作品への共感とはインテンポを遵守することなのかは疑問がある。それは楽譜からの逸脱とは言えないのではないだろうか?むしろ、K.551の2小節目に断絶を置くやり方の方が楽譜を読めていないのではないだろうか?

このような判断は、やはり楽譜をよく見て、考えた上でなくては下せない。仮に直感的にその微妙な変更を感じたとしても、そこに楽譜上でのどんな根拠があるのかを見出せなくてはならない。

さて、同様の理由でベートーヴェンop67の第1楽章の6小節めから14小節めにかけてもリタルダントの可能性を見ている。

冒険の5小節間の動機の提示は、フェルマータによって隠滅していく作りになっている。そのフェルマータはテヌートを約束されている訳ではないからだ。

そういう動機の提示があって、6
小節目から「第1主題が提示」される。だが、ここでの第1主題は実は、冒険の動機を重ねていくだけに過ぎない。つまり、隠滅していく動機が重ねられていくだけなのだ。別な言い方をすれば、9小節めや14小節めにはリズムの進行を刻むものは何もない。つまり、この「第1主題の提示」とされるものは結果としては第1主題だったのかもしれないが、音楽の論理としては動機の重ね合いの結果でしかない。そこには「4拍目」というアウフタクトとしての推進力は見出せないのだ。ここを「第1主題の提示」であると言い切れるのは、この曲を知っているからなのではないだろうか?一方で、作品自体はこの箇所を「第1主題である」と主張していると言えるのであろうか。この9小節間の動きには推進力よりも、むしろ減速的な、主張の弱さを感じるのだ。むしろ、allegro con brioは10小節めからの返しのフレーズの方にある。だが、それもまた、その後の二つのフェルマータによって抑えられてしまう。真にallegro con brioが始まるのはその後になるのではないだろうか?

この第1楽章の主題提示の段取りを見ていると、そのような手探りや段階があるように見えるのだ。

それは単純な「楽譜に忠実」ではない。「楽譜のまま」であるよりも「共感的」であることが忠実なのではないだろうか。

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