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立ち止まって考える〜コリオラン序曲にみる緩急対比

西洋の音楽で、最初に鳴っている音が「1拍め」であることは稀だ。逆に「常識的な音楽」の作りがそうなっているからこそベートーヴェンop21や55は斬新であったのだし、68開始のフレッシュさも同様なのである。

だが、このop62はそれではない。この1小節めや3小節めはその拍節感では不自然が否めない。そもそも、4小節目を「休符小節」としている効果も、op125の6小節めの効果と比べてみて、あまり効果的ではない。つまり、最初の音響の前に何かしらの存在があることを仮定した作りになっているはずなのだ。

これはその後の展開がヒントになる。例えば、冒頭の一部が再現される152小節めだ。ここに至るのは148小節からの小節を分母にした6拍子が伝われて来ているのだ。

つまり

①148 ②149 ③150  ④151 ⑤152 ⑥153 |①154…

という流れだ。冒頭再現の152小節めはこの拍節の中に収まっている。別な言い方をすれば152小節の開始には二つの小節が想定されているのだ。

そう仮定して冒頭を見直すと

0 0 1 2 3 4…という小節の並びになるのだが、ここで改めて1小節めと2小節めとがタイで結ばれている事実に注目させられるのだ。

この二つの仮設小節と二つの小節の結合をヒントにすると、

00 12 | 34…

というセットが見られることになる。さらにこの仕組みが3回転している構図が明確になる。

つまり、ここには4つの小節を分母にした

①0012 |②3456|③78910||①11…

という大きな三拍子が存在している。さらに言えば、二つの小節を分母とする大きな6拍子の拍節があるとも言える。

①00 ②12 ③34 ④56 ⑤78⑥910|①11…

そして、この大きな6拍子の構造は14小節めから始まる「主部」にたいする「序奏」に当たるという緩急対比があるという、さらに大きな構図の存在を知るきっかけともなる。

この序奏にあたる「緩」部は二つの小節を分母とし、主部にあたる「急」部は小節を分母とするというギアチェンジの存在が確認できる。

この緩急対比の関係から、全体を見直すと、

緩(0〜13小節め)
急(14〜151小節め)
緩(152〜157小節め)
急(158〜275小節め)
緩(276小節め以降)

という古い時代のフランス風序曲の緩急対比と似た全体の設定が確認できる。op67の第3楽章と第4楽章、そして終結部との構築にもまたこの緩急対比構造があるのだが、ベートーヴェンの時代にはまだこのような形式感が残っていることも確認できるのは興味深い。

先日のファランドールの話しでも書いたが、鳴っている音を「1拍目」として認識してしまうのは音響を聞いてしまって「形」として捉えようとする力に欠けているからだ。
それは音楽に乗れない理由でもあり、もしかしたら外国語のリスニングが苦手な原因にも繋がっている。
論理的な文章が読めるようになるためには、その文章の構造を掴めるとめに、本題と比喩や説明などの部分とを読み分けられる耐性が必要だ。全ての文字に同じように反応してしまうようでは文章は読めない。西洋の音楽を形として聞けないのはそれと同じ根幹的な問題があるのではないかと考えている。

鑑賞の立場は本人の感性の問題なので、音響を聞こうとそれは問題ではない。ただ、それが演奏や批評という側に立つ場合に初めて論理的な欠陥となるし、フェアな立場ではなくなる。例えばファランドールの最初を「1拍目」と認識してしまうとか、ブラームスop98の第4楽章のシャコンヌテーマを「主題」として捉えてしまう感覚では論理的に作品は捉えられないのだ。

目の前にあるものにがっついてしまってはコース料理は楽しめないのだ。

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