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終-04| すぐ横には異なる芸術観が・・・

2020年2月10日/記


芸術的オーラをまとう「もの」たち

 私は今も「美術評論家」を名乗っている。美術の終末論を唱えながら美術評論家を名乗るのはどうもしっくりこないが、最後を看取る立場の美術評論家だと、まあ屁理屈で自分を納得させている。それにしても妙な立場である。自分がこれまで立っていた足場がガラ、ゴロと崩れ、これはやばいと後ずさりしながら観察しているのである。観察する喜びはあるけども、自分の足場が崩れていくのだから当然暗い気持ちになる。
 美術の新しいステージへ移行するための終末論や終焉論は、多くの人に希望をもたせて、目出度い。残念ながら私の終末論は人に喜ばれないタイプで、希望という言葉からは遠い。ただ、絶望を求めているわけじゃない。無理な延命を避けて、まずは素直に終末の実相を観察しようということである。
 もっとも、社会の中でのシェアが落ちたり存在感が弱ったりしても、ジャンルとしての美術は生き残るだろう。なんといっても膨大な遺産を抱えた文化ジャンルである。この点を茶(茶の湯、茶道)や花(いけばな、花道)と比べてみると面白い。
 俗に茶や花を伝統文化と呼ぶことがあるが、それは間違いである。文化としての茶や花が形を成したのはせいぜい室町時代以降なのだが、美術は遥かに古くから続く文化であり、その意味では美術こそ伝統文化と呼ぶべきなのである。だから、美術と比べればだが、茶や花は新興文化なのである。しかも作品(もの)が残らないので、継承する人間がいなくなれば、ジャンルごと消滅・・・に近い事態も起きうる。
 美術の場合、太古から残されてきた膨大な「もの」があり、その点が大きく異なる。ただし、「もの」は古くても、美術作品として認知された時期は、案外新しい。今日の美術作品は、明治以降の欧化主義の流れの中で近代的な芸術観との照合をへて、美術史に取り込まれてきた「もの」たちである。それまで古い価値観に包まれていた「もの」や、時には無価値同然の「もの」が近代的な芸術的オーラをまとって美術史に場をえたのである。
 その最初期の例が岡倉天心(覚三、1863~1913)の東京美術学校での講義に登場している。


天心、「日本美術史」を創始

 天心は、学校開校の翌年の1890(明治23)年から3年間、「日本美術史」を講義している。美術史家の吉沢忠によれば、まだ「美術史らしい日本美術史はなかった」(注1)頃である。自筆の講義録はないが、学生の受講ノートが残されている。それによると、講義の中で天心は、法隆寺夢殿の本尊である救世観音を見た時の、あの「夢殿開扉」のエピソードを語ったという(注2)。
 1884(明治17)年、当時文部省の役人だった天心は、京阪地方の古社寺調査を命じられ、顧問のフェノロサらとともに法隆寺を訪れた。ここの救世観音は古くから秘仏として有名だったが、天心らは「寺僧を諭して秘仏を見んこと」を求めた。寺僧の方は、これを開いたら「必ず落雷すべし」と抵抗したらしい。明治初年、神仏混交問題が議論された頃にも一度開きかけたが、たちまち空が曇り、雷が鳴ったので途中で止めたというのである。
 天心らは、落雷の事は自分たちが引き受けるからと約束し、堂扉を開こうとすると、僧たちは皆怖れて立ち去ってしまった。ようやく中に入って、秘仏を何重にも包んでいた布などを除くと、「七尺有余の仏像、手に珠を載せ厳然として立てるを見る。一生の最快事なりといふべし」。幸い落雷には遭わなかったという。
 学生を前にした自慢話なので、細部に当てにならないところがあるが、ここに「もの」の価値の新旧転換があったことは確かである。人の目に触れないからこその秘仏であり、そのままでも宗教的価値は高かったはずだ。それを天心らは強引に宗教的ベールをはぎ取り、素っ裸の「もの」を見て、新たな価値を付与したわけである。そして天心はこう断定する、「推古時代の美術巧みなるにあらざれども、夢殿、中宮寺等の諸像に至りては美術上の価値あるものなり」と。
 もし自分が宗教家だったら「役人やお雇い外人が何を勝手なことをするんだ」と叫びたくなりそうだが、こうしたことが近代精神をベースにした美術史を作り出す第一歩であり、天心らは価値の大転換を果たしたのである。それゆえに、客観的調査などとは別次元の、「一生の最快事」という、いささか大げさな感動が生じたのであろう。スクラップ&ビルドは人を興奮させる。しかもこれは彼ら個人を超えた、国家の方針でもあり、その後も社寺や個人を対象にした文化財調査が続く。
 こうして天心は、調査=見ることに裏打ちされた、日本美術史を創造していった。
 天心の日本美術史は、初の日本美術史だけに、今日とはずいぶん違っている。しばしば指摘されているように、文人画に冷淡であり、浮世絵に対しての評価は低い。例えば浮世絵について、「浮世絵大いに発達して、社会下層の為めに一美術を与へたりと雖ども、日本美術の大体に影響するもの鮮(すくな)く、当時の主要なる画風に随伴して進歩したるも、美術界を支配せるものにあらず」と語る。ずいぶん低い評価であり、今日の美術史の常識とは大きく異なる。
 このように創始期の美術史は、美術史が人の手によって作られたものだという、生々しい感触を味わえて面白い。もちろん、その後もいろいろな人の検証や再評価によって美術史は書き換えられていく。その一例を挙げておこう。

(注1)吉沢忠「岡倉天心とその『日本美術史』」『岡倉天心全集』第4巻、平凡社、1980年8月
(注2)岡倉天心「日本美術史」『岡倉天心全集』第4巻、平凡社、1980年8月


岡本太郎、古物に美を見る

 天心の日本美術史は、主に推古時代以降を対象にしている。もちろん、美術を生み出す準備は太古からされているとの認識をもっていた。が、推古より前は「寧ろ古物の性質を帯ぶるものにして、稀れに美術と称するに足るものあるも、其の伝来詳かならず。美術として系統を立てゝ述ぶべき程のものあるなし」、という判断であった。その古物に現代的な感覚で「美」を再発見したのが岡本太郎(1911~96)である。
 天心の講義から約60年後の1951年、ある座談会が開かれた。いけばなの草月流機関誌に掲載するための「いけばなあれこれ放談会」(11月7日開催)で、勅使河原蒼風、岡本太郎、土門拳、安部公房らが参加した(注3)。内容はいけばなに関してだけでなく、放談会の名にふさわしい自由なものであった。事実、岡本はある話を切り出し、放談会は一気に盛り上がる。


岡本 ちょっと話は違うが、きょう実は縄文式の土器を見たんです。実に沢山の問題がある。とにかく素晴らしいものだよ。
土門 縄文式というのは、日本民族のものかね。あれは実にアクの強い妙なものだね。
岡本 僕は、やはり日本民族の芸術と考えたいね。
土門 案外、現在の僕たちに通ずるところはあると思うんだが、普通考えられている日本民族というよりは、僕は漢民族的な体質を感ずるんだ。
岡本 日本の芸術と言えるかどうかわからないけれども、そこらへんを徹底的に調べたいと思っているんだ。


 さらに安部公房なども加わって縄文と弥生の違いなどの議論となり、放談会の一テーマとなった。これがその後の岡本が巻き起こすことになる縄文再評価の最初の議論だった。今日では、縄文土器を美の視点から語る場合がけっこう多い。美術関係者なら、弥生土器は無視しても、縄文土器をはずさないのが普通だ。岡本が巻き起こした縄文土器の美的再評価の影響は大きかったのである。
 岡本が縄文土器に美を見た背景には、モダン・アートがその裏面に潜在させていたプリミティヴィズム志向があるように思われる。典型的にはピカソのアフリカ原始美術などへの関心だが、岡本はそうしたモダン・アート的感覚で縄文土器を見た可能性がある。
 いろいろな人の手によって美術史は書き換えられていく。跡形もなく綺麗に書き換えられる場合もあるだろうし、ツギハギが見える場合もあるだろう。さて縄文土器はどちらだろうか。冷静に見れば、縄文土器は今も考古学の対象である遺物であり、歴史学的な意味での遺産とするのが基本である。岡本の美的評価は、彼の現代芸術論に即して論じられている面があり、それだけ強引なので、少しツギハギ感を残しているのではないか。

(注3)「いけばなあれこれ放談会」『草月』3号、草月会出版部、1952年1月。出席者は水沢澄夫、岡本太郎、藤川栄子、勅使河原蒼風、土門拳、安部公房。


自主独立の創造精神

 再び天心の日本美術史にもどって考えてみたい。天心自身が「不完全なり」と認めての講義だったように、その後は今日までに大きく書き換えられていった。それは当然として、それ以上に重要なことがある。初めての美術史らしい日本美術史なのだが、では、なぜ研究され、記録され、語られねばならないのか、である。序論で天心は、美術史を研究する要にあるのが「吾人は即ち未来の美術を作りつゝある」ことだとしている。過去を記録することに止まるのではなく、過去の研究によって未来の美術のための基盤を作り、前進しようと考えていたのであろう。講義の最後に語った言葉も同様である。


 徒らに古人に模倣すれば必ず亡ぶ。系統を守りて進み、従来のものを研究して、一歩を進めんことを勉むべし。西洋画、宜しく参考すべし。然れども、自ら主となり進歩せんことを。


 初めての美術史らしい日本美術史は、初めての近代的な創造精神を伝える講義だったのである。ここでは過去に学びながらも過去に囚われない精神が語られている。そして他を排除することなく、自主独立も失わない、柔軟な精神が示されている。
 ここまで書いてきて、今も自主独立の「創造精神」にこだわっている自分自身に気づかされる。天心の言葉をそのまま信じて、というわけではない。天心が特権的な立場で美術行政や美術教育に手腕をふるっていた頃の言葉であり、傲慢さをにじませているし、楽観的すぎるとも思える理想論である。ただ、そうだとしても、この創造精神こそ近代美術の青春時代を代弁するものとして、終末論の一隅に残しておきたい。
 天心の講義から130年、今、私は創造精神の失速を書いている。書きながら、では失速以後の世界はどうなるか、近未来の美術の姿を夢想したくなった。しかし、果たして近未来のことなのか。今の今、目の前に見えているものは・・・。


芸術賞選考での違和感

 ある芸術賞の選考に関わったことがある。作品個々の優劣を選別する賞ではなく、芸術の諸分野、美術、音楽、舞踊、演劇、文学などで優れた結果を残した人を表彰する芸術賞である。私は美術を主とする選考委員として関わった。賞の数に決まりはないが、芸術賞と新人賞の二種類があり、合わせて7名前後に与えられるのが普通である。分野ごとではないので、最終的に全選考委員の合意で決定する仕組みになっている。他分野への口出しも可能であり、実際にも口を出して、結果、興味深い「違和感」を抱えた。それは受賞者の年齢についてである。選考委員から提案されてくる候補者の年齢に相当な開きがあったのである。
 もちろん年齢優先で決めるものではないし、賞の規則にも明確な規定はなかった。ただ、書の分野から60代の人に新人賞という提案があり、少しばかり面食らったのである。しかも一方では、津軽三味線の分野から20代になったばかりの、まだ現役の大学生に新人賞という提案があった。親子か、それ以上の年齢差である。
 作品の優劣を競う作品賞なら納得するのだが、人の功績を讃える賞なので不思議な気がした。例えば山にこもっていて突然世に現れた新人老書家といったような、何か特別な理由があればと思ったのだが、どちらも普通に優秀というだけである。
 別の時だが、芸術賞にバレエの分野から30代になって間もない人が提案された。他の分野の候補は、若くて50代半ば、美術などは70代だったので、やはり親子か、それ以上の年齢差である。なんでこんなに差が出るのか? まだ若いし、そんなに急がなくてもと、その分野の選考委員に聞いたのだが、バレエでは今がピークだとの話だ。ではこのバレエの人に先はないのかと聞いたら、そんなことはない、バレエは体力的に無理でもモダン・ダンスに切り替えて続けることもできると。まあ、正確な言葉は忘れたが、だいたいそんな意味の答えが返ってきた(注4)。

(注4)私の聞き間違いで、モダン・バレエかコンテンポラリー・バレエだったかもしれない。それらは、本文でのちに触れるように、モダン・ダンスの影響などもあって生まれたバレエであり、自由度が高い。それだけ体の負担を少なくして踊れるということか。ただ、従来のバレエの雰囲気を残していて、折衷的な印象を受ける。あくまでバレエであり、モダン・ダンスの流れには入らないのであろう。


すぐ横には異なる芸術観が

 芸術とは何か、が気になってきた。が、賞選考の場なので深い議論はできなかった。各分野の諸事情というより、もっと根本的な、芸術観の基本が違うために起きる年齢差ではないかと、その場で見当をつけた。芸術という言葉は同じでも、見ている方向がまるで違うのだと。美術のすぐ横に美術とは大きく異なる芸術観に支えられた分野が多数存在していることに注目したいのである。
 これは、薄々、感じていたことではある。ただ、賞選考は、自分の分野に賞を取りたい選考委員にとって真剣勝負の場。そんな場で芸術観の違いを目の当たりにしたので、たいへんリアルだったし、興味深かったのだ。
 バレエの要素を取り入れていると言われるのがフィギュアスケートである。そして、ピークはバレエよりも早い。とくに最近の女子フィギュアでは、なんと17歳あたりがピークになる選手もいて、体が成熟していく過程で成績が落ちていくようにも見える(注5)。もちろん芸術とスポーツを同列に語ってはいけない。が、体と技術が密接に絡み合っている点は似ている。バレエは、体という土台の上で訓練を重ね、技術が向上し、優れた演技ができる。もちろんセンスも重要だが、技術重視の分野と言ってよいのではないか。
 技術重視といえば、わが国の芸大入試では長くデッサンが必須だった。しかし、今は事実上崩壊している。それでも日本の教育では割に重視されてきたと言えそうである。歴史的に見れば、西洋美術の主流であった美術アカデミーの規範、デッサン重視もその一つだが、そこからの脱却が始まるのは印象派前後、本格的には20世紀に入った頃と見てよいだろう。バレエも同様であり、古典的バレエの規範を否定して自由なダンスを目指したのがモダン・ダンスで、19世紀末から20世紀初頭あたりで成立したと、これはにわか勉強で知った。
 モダン・ダンスのパイオニアは、電気照明によって多彩な輝きを与えられた布(衣装)を羽ばたかせて踊るロイ・フラー(注6)、裸足で踊り始めたイサドラ・ダンカン(注7)らである。とりわけダンカンは、モダン・ダンスの祖というだけでなく、モダン・バレエの成立にも少なくない影響を与えたことが知られている。モダン・バレエは、さらにコンテンポラリー・バレエへと。
 興味深いのは、現在、若手バレエダンサーの代表的な登竜門として知られるローザンヌ国際バレエコンクールなどでは、クラシックとともにコンテンポラリーが課せられていることだ。YouTubeで見てみたが、確かに同じ若者が古典と現代の両方を踊っている。実はこれ、私には既視感のある光景なのである。
 私はいけばなにも関心をもっていて、現代いけばなの作家たちと長く関わってきた。伝統的ないけばなの規制を脱却し、自由な表現を目指しているのが現代いけばなである。現代美術とほとんど変わらないような表現形式の作品を制作する彼らだが、一方で、全員が器に花をいけるし、古典様式の花をいける人もいる。とりわけ後者が、古典と現代の両方を踊っている若者と重なるのである。
 それを悪いと主張しているのではない。それよりも、すでに述べたとおり、まずは「異なる芸術観に支えられた分野が多数存在」していることに目を向けたいのだ。どの分野も何らかの形で近代化の影響を受けているので、近代的な芸術の外観を備えている。しかし、よくよく見れば、一分野の内側に異なる芸術観を抱えもっている場合も多いのである。その典型例が「古典と現代」なのである。あらゆる分野が抱えている構造的な問題だと思われるが、分野によってやはり現状や事情が異なっていると推測される。
 そこで、私が直接的に関わった「いけばな」を中心に据えて、この問題に迫ってみようと思う。体感的にえた知識や感触があり、問題の整理に役立つからである。ただし、少しばかり長くなるので、この論考をここでいったん閉じて、次に回すことにしたい。

(注5)素人目にはそう見える。ただし、成熟とは何かという難解な問題がある。美術では、児童美術には成人美術とは違った独自性や価値があると見る人も多い。私もその一人である。スポーツの場合も若年層の問題はなかなか判断がむずかしいのではないか。なお、若手アスリートたちはどんどん進化しているように見えるが、一般の少年少女たちの身体能力のことが気になる。親世代と比べて全面的に落ちていると聞くからである。この世の中、進歩しているのか、退化しているのか。
(注6)ロイ・フラー(1862~1928)アメリカ出身のダンサー、渡欧し、パリなどで活躍。1900年のパリ万博ではロイ・フラー劇場を作り、自ら踊っただけでなく、海外巡業中の川上音二郎、貞奴らを出演させた(海野弘『モダンダンスの歴史』新書館、1999年6月。山口玲子『女優貞奴』朝日文庫、1993年6月)。山口玲子によると、興行は大成功で、4カ月続演。観客にはアンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソ、ロダンらがいた。ジイドなど6回も見に通った。貞奴は「パリ万博随一の花形」「パリ社交会のトップ・レディに押し上げられた」という。
(注7)イサドラ・ダンカン(1877~1927)アメリカ出身のダンサー、1899年渡欧、一時ロイ・フラー一座に参加し、のち独立。女性を抑圧してきた因習を強烈に否定、バレエ着とトウ・シューズを脱ぎ捨て、バレエに対抗するモダン・ダンスの祖となった。彼女の思想には古代ギリシア文明に対する憧れがあるが、海野弘によると、それを先導したのは兄のレイモンド・ダンカンだったという。
 レイモンドの思想は「古代ギリシア風のプリミティヴな生活に帰れ」であり、「ギリシア風のゆるやかなガウンを着て、頭をオカッパ風に刈り、鉢巻をし、サンダルをはいたスタイルで街に出て」人々に呼びかけ、パフォーマンスをしたという。そしてレイモンドがパリで活動していた頃、画家川島理一郎が弟子入りし、少し遅れて藤田嗣治も弟子入りしている。そういえば藤田のオカッパ頭は、これか。



2022年10月13日/記

 この後の終末論は、いけばなを軸に展開させるはずだった。が、岩田洗心館で開催していた講座「珈琲茶会」がコロナ禍のために中止となり、講座の発表に合わせて書いていたバンクシー論の行き場がなくなってしまった。それでバンクシー論を終末論番外として発表することにしたのである。ところが、1回程度のつもりが、どんどん長くなり、5回も掲載する結果となった。
 で、こうなったらブログの方では「番外」という言葉を外して本論に組み入れよう、ということに。継続して読んでいただいている方々には迷惑なだけであり、お詫びするほかない。


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05|終末論から読み解くバンクシー


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