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2016年12月の記事一覧
カンボジアでの反タイ暴動
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1.2003年の暴動
2003年1月23日、カンボジアのメディアが、タイの有名女優が出演したテレビ番組で「アンコールワット」をタイに返還すべきと侮辱したとの噂が流されたことに端を発し、フン・セン首相も「アンコールワットを盗もうとする『泥棒スター』だ」と批判する発言をしたことから、カンボジア国民の潜在的な嫌タイ感情に火を着けた。
1月29日には、約3
タイのプレアビヒア占拠と撤兵
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タイにとっての「失地」がカンボジアに帰属するという現状は、タイが国連加盟するための代償であったと認識されている。すなわち、連合国側の理論でモノゴトが決まるという新しい現実社会に適合する為の踏み絵でもあった。
しかし、ここでタイにとって予期していないことが起きた。カンボジアによるプレアビヒア寺院の領有権の主張である。
1954年のカンボジアのフランス
タイから見た領土の喪失と一時的な失地回復
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欧米列強が進出して来る前までは、タイ(シャム)は、カンボジアの宗主国との認識の下で自国の勢力範囲とみなしてきた。しかし、19世紀後半にカンボジアがフランスの保護国となると、フランスからの圧力を前に、暫時、領土を割譲せざるを得なくなった。以下の「タイの領域喪失」図は、18世紀から20世紀初頭にかけて、英仏の圧力に応じて暫時領土を割譲していった領土の変遷図
プレアビヒア領有権を巡る国際司法裁判所の判決
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プレアビヒアの領有権問題は、1954年のカンボジアのフランスからの正式な独立を機に幕を開ける。1959年にカンボジアが国際司法裁判所に提訴し、1962年6月15日に領有権はカンボジア側にあるとする判決結果が出されている。
当時のタイのサリット首相は、タイ国民に向けて、裁判には間違いなく勝利すると語っていたこともあり、判決を聞いてタイ国民は激怒。学生を
カンボジアから見た領土認識
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1.クメール帝国の栄光
以下は、11世紀から14世紀初頭にかけて栄えたクメール帝国の最大版図(13世紀初頭前後)の説明図である。ただし版図は、境界線も曖昧であり、「影響力がこんなに凄い時もあった」という過去の栄光の投影である。
奇しくも15世紀後半に最盛期を迎えたタイ(アユタヤ朝)の最大版図とほぼ重なる。
誤解してはいけないのは、現代のような領域
タイから見た領土認識
周囲を海に囲まれた日本に生まれ育った日本人からすると、肌感覚的にはなかなか理解し辛いのであるが、陸続きの隣国というのは、歴史的な経緯もあって、お互いが相手に領土を取られたと思っている。
例えば、ラオスに行くと「我々はタイに17つも州を奪われた」みたいなことを耳にするし、カンボジアは、メコンデルタをベトナムに取られたと思っている。自分たちの土地を奪われたと敵意を抱く相手を嫌うのは当然といえば当然で