あなたの日本語はまちがっていますよ! 1
1、「ご苦労様です」は目上の人には使えない。「お疲れ様です」を使うべきだ。 ←間違い
「ご苦労様です」は、私の知っている限り、少なくとも50年以上前には、既に使われていた。それに対して「お疲れ様です」は比較的新しくできた言葉だ。
時系列から考えても、「ご苦労様」の方が正統であり、「あなたの日本語は、まちがっていますよ!」と他者を啓蒙しているつもりだろう人達は、恐らく若い人達で、「ご苦労様」の使用方法を知らないんだろうと、私は推測する。テレビなどで「いやあ、ご苦労、ご苦労」などと偉そうに言う用法しか、聞いたことがないのではないか。
「ご苦労様です」と「お疲れ様です」とでは、意味も少々異なる。「ご苦労様」は「ご苦労をおかけしました」という過去形、完了形と、「(この後)ご苦労をおかけします」という未来形との2つの意味がある。それに対して「お疲れ様」は、実際に労務が終わった後にしか使えない。まだ労務をしていない、疲れていない人に向かって「お疲れ様」はおかしい。
だから例えば、上司がこれから得意先に出かけるのを送り出す時、上司の「じゃあ、行ってくるね」に対して、「お疲れ様です」はおかしいだろう。こういう時に「ご苦労様です。行ってらっしゃいませ」と送り出すのが正しい言葉の使い方だ。
上司「ではこれから××商事に行ってくるよ。」
部下 ◯「ご苦労様です。行ってらっしゃいませ。」
部下 ×「お疲れ様です。行ってらっしゃいませ。」
「ご苦労様です」をもっと丁寧に言うと、「ご苦労様でございます」となる。目上の人にも全く問題なく使用できる美しい言葉だ。
また例えば、近所のご老人が回覧板を持って来てくださった。何と挨拶するか?「ご苦労様でございます」だ。この時に「お疲れ様でございます」など意味が通じない。
近所のご老人「回覧板ですよ。置いておきます。」
受け取った若い人 ◯「どうもご苦労様でございます。」
受け取った若い人 ×「どうもお疲れ様でございます。」
先の例の、上司が外出する際に言う「お疲れ様です」すらもおかしな日本語だと感じなければ、それは言葉の感性がかなり危うい人だ。同じく回覧板の場合に「お疲れ様です」と言う人も、言語に対する感性が非常に低いと言えるだろう。
目上の人にも「ご苦労様」は使えるし、また「お疲れ様」は使えず「ご苦労様」しか使えないシチュエーションもある。
一部の人達は、反対に、目上の人には「お疲れ様」は使えない、と主張している。私はこれには理解を示す。
なぜなら元々「お疲れ様」などという言葉は公的な言葉ではなく、学校の部活動やアルバイトをしている人達が、「お疲れさま〜」「お疲れ〜」などという風に、お互いに使い合っていたのがその初めだ。だから会社の得意先に対してや公的な場面では使ってはいけない、という了解があったからだ。例えば「まじっすか?」などという言葉を、現在、仕事など公的な場面では使えないだろう。それと同じだ。目上の人に「まじっすか?」など、言葉に対する感性の鈍い人でも、それはダメだとわかるだろう。「お疲れ様」は「まじっすか?」と同質の言葉だと感じる人が、今でもいるのだ。
私が、️「ご苦労様です、は目上の人には使えない」などといった言説に危機感を感じるのには、二つ理由がある。
一つは「自分の使っている言葉こそ正しい」という驕りをそこに感じるからだ。こういう人達は「ご苦労様」は必死になって否定するが、じゃあこの僅か20年ほどで広まった「ら抜き言葉」を「まちがっている」と断ずるか、というとそれはしない。決してしない。何故なら自分自身が「ら抜き言葉」を使っているし、且つ「ら抜き」でない正しい言葉を話せないからだ。同様に「大丈夫です」や(コンビニなどの)「温めますか?」などの誤りについても、決して指摘しない。自分が普通に使っている且つ何が間違っているかわからない言葉については、正しいと信じているんでしょう。(この「温めますか?」の誤りは、「どう致しますか?」といった致命的な言葉の誤用につながる非常に危険な誤りである。致命的誤用「どう致しますか?」については、別項で述べる)
もう一つは、ここに「言葉を単純化しよう」或いは「1か0かに、二分化しよう」という圧力があるからだ。単純化、二分化の一例は「差別」と「区別」である。「『差別』はいけないが『区別』は良い」といった、非常に幼稚な浅い言葉の理解がその根本にある。
また「『憲法』は、国民の国家に対する命令で、『法律』は、国家の国民に対する命令」だという間違った理解も同じ。自分の頭の中の浅い知識と理解に、無理やり当てはめただけのことだ。(※正しくは、デモクラシー国家に於いては、「憲法」も「法律」も「国民が国家(国家権力者)に対して命令したもの」です。
「ご苦労様」についても「目上の人には使えない」という、自分の頭で理解できる狭い範囲の極々単純なルールを勝手に作って、それに当てはめているだけなのだ。本当は、その場面場面によって、使える・使えないがあり、それは言葉に対する深い理解と経験で判断できるようになるものだ。
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「あなたの日本語は、まちがっていますよ!」と言いながら自分こそが間違った日本語を垂れ流している人達は、もちろんそのことに全く気付いていない。だからいくら「あなたのその理解こそ間違っていますよ」と指摘したところで、蛙の面に水、決して直しはしないし、「あれ、もしかしたら間違って理解しているのかなあ」という反省もない。そしてそれに騙された人達が、また間違った日本語を広めている。