100歳まで健康で生きた人の習慣。100歳で亡くなった祖父。
100歳の誕生日を迎えて8ヶ月。
自宅のベッドにてふいに呼吸が弱まり、そして止まり、祖父は亡くなった。
99歳のとき、祖父は喫茶店で「120まで生きる!」と知り合いに言っていた。
95、6まで祖父は自分で車を運転していたし(乗りたがったけれどさすがに止めさせた)、100歳の祖父を喫茶店に連れていくと、祖父は100であることを知り合いに自慢していた。
いつまで生きているのだろう。
いつまでも生きているんじゃないだろうか。
そう思っていたのだけど、100歳をこえてから数ヶ月後、一気に身体が悪くなっていった。
寝続けるようになり、食事中も入浴中もウトウトして、手押し車がないと歩行できなくなった(それまではかなり元気に二足歩行していた)。
手押し車を使う前、一度祖父は僕の自転車に乗って喫茶店へ行こうとしたことがあった(そんな無謀なことをしようとしていたなんて気づかなかった)。
もちろん家の前で自転車ごと倒れてしまい、近所の人につれてきてもらっていた。
事実を知ったとき、さすがに僕はぶち切れた。祖父に怒ったことなんてなかったけれど、本当に本気で怒った。
ただ、振り返れば、100歳が自転車に挑戦するなんて、すごいことだったと思う。
祖父は「あれをしよう」「これをしよう」という意志が強かった。
年寄りがよく眠るようになり、自分で動けなくなったら、それからは老衰が早い。
人間、身体を活動させるためには筋肉が必要。老いている人が動けなくなれば、あっというまに衰えてしまう。
自分でトイレに行けていた祖父は、眠る時間が増えてから、足腰も弱まり、漏らすようになり、それでも手押し車でなんとかトイレに行こうと挑戦していたけれどトイレで倒れるようになり、すぐに全介助が必要になっていった(それまではおむつもしていなかった)。
100を過ぎてから急激に老人らしい老人になり、それからすぐ、亡くなっていった。
だから、100歳になるまでは、みんなが驚く元気な老人だった。
知り合いの誰もが「この人は100歳余裕でこえる」と言っていたくらい。
話が長くなったけれど、ようやくタイトルについての本題。
僕は長年無職の時代があって、そのときはよく祖父に「コーヒーいくか」と誘われた。
祖父は自分で行きたいから車を運転できる僕が必要だったんだけれど、無職でなにもなかった自分にとって、目的をもらえることは、ありがたかった。
と、また長話になってしまうから割愛するけれど、時間を持て余しすぎた僕は元気な祖父を間近で観察していた。
祖父はたいへん規則正しい生活をしていて、毎日絶対していたことがある。
・朝は必ず喫茶店(元気な頃は)
・外で手先を使う庭仕事(庭師だったので盆栽を触ったり、できる範囲で庭の手入れ)
・食後のおやつ
・入浴
・入浴後早寝
あと細かいところで言うと毎日ビタミン剤(ビタミンB)を飲んでいたりヤクルトを飲んでいたり。
それらはそこまで関係なかったかもだけど、5項目は長生きの上でかなり重要だったと確信すらある。
・朝は喫茶店
車を運転できるときは、毎朝絶対に喫茶店へ行っていた。
喫茶店に行くのがよかったというよりは、朝、目を覚まして、まず最初の目的があることがよかったのだと思う。
一日のリズムを作る上で重要だったはず。
自分で車を運転できなくなってからは、無職引きこもりの僕が14時に喫茶店へ連れて行っていた。
これも「14時」という時間はめったに崩れなかった。リズムの中の一つに組み込まれていただろう。
・外で手先を使う仕事
外に出て手先を使う、というのも、かなりよかったはず。祖父が作った盆栽を一緒に岐阜の市へ売りにいったこともあった。
ただこれは98あたりから難しくなって、まれに外で倒れることがあり、母が祖父に怒っていた。
怒られても、祖父はやはり「それをしたい」ようで、外に出ては手先を使う仕事をし、たまに倒れていた。
99歳のとき、脚立に上って枝を切っていたこともあった。
一歩間違えばこれで死んでいたかもしれないけれど、大事なリズムの一つだったはず。
手先を使うことは、ボケなかった理由の一つだっただろう。
・食後おやつ
祖父とはよく一緒にスーパーへ行った。
スーパーへ行くと、100%の確率でプリンやコーヒーゼリーを大量買いしていた。
ほかにもあれこれ買うものだから、いつもカゴが重かった。
そのプリンなどは、夕食後絶対に食べていた。
食べなかった日はない。
食べたい欲がきちんとあった。
生きる上で大事なことの一つだったと思う。
・入浴
僕は面倒くさくて、シャワーしか浴びない派なのだが、祖父はほぼ100%の確率で入浴していた。
自分でお風呂を沸かすスイッチを入れていたので、自分でできるころは特になにも心配はなかったけれど、何度かお風呂で失神というか、気絶というか、意識がもうろうとなったことがあった。
母が必ず気づくので、大事に至ることはなかったけれど、救急車を呼んだこともあった。
それに懲りてお風呂をやめる、ということはない。
絶対に入浴はやめなかった。
なので母が祖父のお風呂の管理を徹底していた。
入浴しない日は、病院に行った日とか、ワクチンを打った日とか、それくらい。
しかし100歳をこえてよく眠るようになってから、ある日突然、入るのをやめるようになった。
うとうとしていたので、お風呂で事故が起きるのを恐れたのかもしれない。
で、入浴を自分で止めるようになってから(ほとんどやめた直後から)、あっというまに寝たきり老人になった。
身体を健康に保ち続けるために、適度な入浴はすごく重要だったはず。
入浴について少し調べたのだが、夕食後すぐに入るのはよくないそうだ。入浴は胃腸の運動を停止させるので、消化不良につながる。
そういえば、祖父はいつも必ず食後に風呂を沸かしていた。風呂が沸く間少し休み、それから入浴していた。
本当に健康を考えるなら、ベストは食事前に入浴だが、それでも祖父は健康でいつづけたので、胃腸が強かったのかもしれない。
・入浴後早寝
これも本当に崩れたことがなかった。
人間、体温が下がるとすーっと眠りに落ちるようになっている。
お風呂で適度に体温があがり、布団に入って、すーっと眠りにつく。祖父が寝る時間はだいたい8時〜9時だった。
「寝れんようになるとボケる」なんてことを祖父は言っていた。よく眠れるから自分は健康なんだと、自慢をしていた。
これから下はだいぶ余談になるけれど、こんな長生き習慣(というか長生き性格というか)もあった。
・悪いことを楽観的にする思考
・「あんがと」と言う
・人の顔を見て笑う
・悪いことを楽観的にする思考
なんだから自己啓発っぽくなるけれど、祖父は悪いことがあってもそれを楽観的に変える考えをよくしていた。
ストレスを抱えない人だったと思う。
ある日、祖父(98歳辺り)の要望で遠出したことがあった。その帰り道、祖父の誘導に従って僕は運転を続けたんだけれど、それが帰り道とは逆方向で、まったく知らないところまで行ってしまい、僕は帰れなくて恐怖を感じた。
「どうしようどうしよう」と焦る僕を見ても、祖父はとくに悲観することなく余裕で、僕がなんとか方角を考えながら運転してようやくわかる場所まで戻ることができたのだけど、そうしたら祖父は「ええドライブになった」と笑っていた。
あと、これは人としてどうかと思うのだが、よく「人のせい」にしていた。
ストレスは万病の元なので、健康的にはよかっただろう。
・「あんがと」と言う
祖父はお店を出るときや誰かの世話になると、絶対に「あんがと」と言っていた。「ありがとう」と言っているんだけど、なまってそう聞こえる。
これも、ストレスを減らすことの一つになっていたと思う。
お風呂に入れなくなってから、デイサービスで入浴するようになっていたんだけど、最期の日もデイサービスに行って、それから体調が悪くなったそうで、デイサービスの人は家に戻ってきてからしばらく居てくれたらしい。
体調が戻って、デイサービスの人が帰るときには、いつものように「あんがと」と言っていた。
家族に対しては、「あんがと」と言わなかった。家族だからこそ言わなかったのだろう(僕が祖父に「あんがと」と言われたことは数えるくらいしかない)。
・人の顔を見て笑う
顔が合うと祖父はよく笑顔になった。
知り合いには誰にでもそうだったらしい。
僕は人の顔を見ても笑えないから、僕の顔を見てにこりと笑う祖父を見て、素直にすごいと思っていた。
「笑う」というのは、作り笑顔だとしても、自身にとてもいい効果をもたらすそうだ(本でそう読んだことがある)。
長生きの理由の一つになっていたはず。
ここでたいへん重要な事実を書くのだけれど、祖父は80歳頃までヘビースモーカーだった。医者に止められ、死ぬのが恐くなったのかタバコは一切やめたけれど、その年齢まで好きに吸い続けたのも、ある意味、長生きの理由になったのではと思う。
ほとんどボケることもなく、100歳までしっかり二足歩行して生きた祖父。
大往生した祖父の健康習慣で、一つ惜しいと思っていたことがある。
老人あるあるだと思うけれど、トイレが近くなるので、あまりすすんで水分をとらない。
祖父は決まった時間に家でお茶を飲む習慣があったけれど、自室に飲み物を持ちこまなかった。
もっと積極的に水分をとれていたら、もう少し元気でいられたんじゃないかなと思う。
最後に。
たまに怒りっぽいところがあり、人としてそれはどうかと思うようなところもあったけれど、戦争時代を生きた人なので、仕方ない性格だと僕は受け入れていた。
祖父とはそこまで話もしなかったけれど、祖父を乗せて車を運転するようになってからは関わりも増え(でも全然会話なかったけど)、良い時間をもらったと思う。
救急車の中で、ずっと心臓マッサージは続けられていて、でももうその心臓はほぼ動いていなかった。
僕はまだ温かい祖父の手を握って、「さようなら、おじいちゃん」と、心の中で何度もつぶやいていた。
さようなら、おじいちゃん
さようなら、さようなら
さようなら、さようなら
深い感謝をこめて、何度もそう心でつぶやいていた。