命の予言 - 旅立ちのキセキ《前編》-
かれこれ20年以上も前のお話です。
春分の日に、いとこが結婚式をあげました。おだやかに晴れた佳き日で、父と母は朝早くから祖父母といっしょに式場へ出かけました。式を終えて帰ってきたのは、15時くらい。
かわいい孫の晴れ姿を楽しみ、紋付き袴姿でしあわせなお酒を飲んだ祖父は、すこし疲れたのでしょう。昼寝すると告げて、横になりました。
これは、祖父の旅立ちのちいさな奇跡のような軌跡。
思い出にのこる春の、ちょっぴり不思議なお話。今夜は、前編をお送りします。
当時、わたしのおなかには赤ちゃんがいました。妊娠6ヶ月、おなかがすこし目立ってきた頃です。育児休業制度はできたものの利用実績はなくて、わたしはその年度末で退職することになっていました。今では考えられないけれど、まだそんな時代だったんです。
祖父母はわたしの初めての妊娠を、それはそれは喜んでくれました。無事に生まれてこれば、ふたりにとって初の曾孫です。妊娠15週になった頃、エコー写真を祖父母に見せました。ちいさな胴体に、ちいさなちいさな手足、人間っぽいかたちに見えてきた頃です。
祖父はメガネを外して、しげしげとエコー写真を見つめました。
「ほぉ~、15週か。ちょうどマウスくらいの大きさだな」
いたずらっぽい瞳をして そう言うと、祖父はガハハと愉快そうに笑いました。研究者だった祖父にとって、マウスは慣れ親しんだ実験対象だったんです。
「ちょっと、おじいちゃん! ひとの赤ちゃんをネズミと一緒にしないでよ!」とわたしが怒ると、祖父はさらに「人間もマウスも同じ哺乳類なんだから、おんなじだよ」と笑いました。
そして、すっと まじめな表情をして、こう付け加えたのです。
「この子が生まれてくる頃には、僕はこの世にいないだろうな」
そのことばを、わたしと祖母は笑い飛ばしました。
「おじいちゃん、こんなに元気なのに、何言ってんの~!」って。
まさか、それが予言になってしまうだなんて。
いとこの結婚式の日の夕方、わたしが職場で引き継ぎの準備をしていると、電話が鳴りました。母からでした。
おじいちゃん倒れたの。詳しいことは後で言うけど今救急車で大学病院に運ばれたから帰りに病院に寄って! いつ来れる?
うしろはざわざわしていたから、病院の待合室なのかもしれません。母にしてはめずらしい低い声、その息つぎもないことばに、ひざが震え、顔から血の気が引いていくのを感じました。
仕事もそこそこに病院へ急行すると、祖母がホッとした表情で祖父に声をかけました。「おじいちゃん、うたが来ましたよ」
ベッドに横たわる祖父のあたたかい手をとって「おじいちゃん、来たよ! うただよ!」と声をかけると、目こそ開けなかったけれど、祖父はわずかに手を握りかえしました。
「おじいちゃん、聞こえるのね!」
昼寝中の祖父の、普段とはちがう大イビキを聞いた祖母が「ゆすっても起きないということは、このイビキは脳だ!」と、母と119番に電話したのだそうです。
やがて、医師の説明を聞いてきた父と母も合流し、祖父の脳のCT画像を見ながらどの部分に梗塞が起きているのか、父から説明がありました。
退職まで残り10日。仕事終わりに車で1時間かけて病室に通う日々が始まりました。ベッドのかたわらに座り、手をさすり、脚をさすり、話しかけます。最初の日こそ反応していた祖父でしたが、すぐに反応はなくなりました。聞こえていたとしても、身体を動かすことができない様子でした。
病室で、祖父母の通うカトリック教会の神父様に会うこともありました。神父様はベッドの傍らで祖父の安寧を祈り、家族の憔悴したこころに そっと手をあててくださいました。
3日後のCT画像を見ると、梗塞により障害されている部が脳の半分くらいまで増えていました。
わたしは悟りました。今も少しずつひろがっていて、もう決して元には戻らないのだと。
人工呼吸器はつけませんでした。
経管栄養も中心静脈栄養もしませんでした。
褥瘡ができないように、数時間おきに身体に枕をかませて、体位を動かすだけ。
大好きなビールを飲めるわけでもない。
誰かと楽しく話しながら時間を過ごせるわけでもない。
手塩にかけた花々の咲く庭でお昼寝できるわけでもない。
この状態で永らえることが祖父の幸せにつながるわけではないと、祖母や母や伯母が話し合って判断した結果です。
祖父の身体はすこしずつ枯れ、ちいさくなっていきました。
この記事は、拝啓 あんこぼーろさんの企画 #春風怪談 に参加しています。
ぜんぜん怪談っぽくないのですが、不思議な実体験でも構わないということなので、参加させていただきました。不思議なことが起きるのは、後編ですよ。それまで、ちょっと待っててくださいね。
【予告】
思いがけないことが起きた《後編》は、3月31日(水) 朝の6:30に投稿します。