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vol.3 懐かしさが込み上がる豆花の甘み

台湾に初めて訪れた時、よくわからない懐かしさが込み上げてきた。

漢字の看板が溢れる街並、ものすごい台数のバイクの群れ、ご飯を食べながら接客をする店員さん、どれも日本とは異なる文化で戸惑いを隠しきれなかった。ところが、ふとした瞬間に、子ども時代にワープしたような不思議な気持ちになった。

「豆花(トウファー)」を初めて食したときも懐かしさと安堵感が込み上げてきた。

豆花と言えば、台湾のデザートの代表格。豆乳を食用石膏粉(硫酸カルシウム)で固めたものにシロップがかけられている。
ほんのり甘い豆腐スイーツで、舌ざわりはプリンともゼリーとも異なる。口に入れると儚げにゆっくり溶けていき、ふんわりとした素朴な美味しさである。
台湾には豆花専門店も多くあり、小豆、タピオカ、芋頭、仙草、愛玉・・・など、さまざまなトッピングを選べるのが一般的で、何をトッピングするか悩む楽しさもある。

台湾在住中や訪問した際には、さまざまなトッピングの豆花を食べ、楽しんだ。台湾人の友達3人に、一番好きなトッピングは何か尋ねたところ、全員迷わず、「ピーナッツ」と答えた。

「子どもの頃は、選べるほどのトッピングはなく、豆花を注文すると、花生(ピーナッツ)豆花が出てきたの。花生豆花が台湾人のソウルフードよ。」

と教えてくれた。

台湾人おすすめの花生豆花を注文すると、豆花、シロップ、ピーナッツと、オフホワイトから薄いベージュのグラデーションが器の中で輝いていた。
時間をかけて煮込まれた、ほどよい柔らかさのピーナッツと、つるんとした舌ざわりの豆花が口の中で調和し、やさしい甘さが広がる。

豆花にたっぷりとかけられたシロップはサトウキビから作られるきび砂糖を使用している。まろやかな甘みで、この素朴なサトウキビの甘さが、子どもの頃、苦い薬を飲むのを嫌がった私に母が作ってくれた砂糖水の甘さと重なったのだ。懐かしさと安堵感の理由がわかった気がした。

豆花のシロップの原料であるサトウキビ栽培は、かつて台湾の一大産業で、台湾での製糖事業が発展したのは、日本統治時代だという。

台湾南部をバイクで旅した時、広大なサトウキビ畑を目にした。全盛期よりはだいぶ減ったものの、今でも台湾の中南部ではサトウキビ畑があちこちで見られる。
高温多湿な台湾では、甘味のある食品は大切な栄養源で、サトウキビの栽培、砂糖の製造には古い歴史がある。

日本統治時代に「台湾製糖株式会社」が設立され、本格的な製糖事業が進められる。今に続く台湾の製糖業の礎を創った会社である。
初代社長は、日本初の製糖会社の設立者でもある鈴木藤三郎。日本の国策として始まった台湾の精糖業は、当時頻発していた抗日運動への対応に苦慮していたこともあり、並々ならぬ苦労があったことは想像に難くない。
日本と台湾の製糖業発展に尽くした鈴木藤三郎の功績を讃えた展覧会が、2024年11月16日から2025年5月27日まで、高雄の台湾糖業博物館で開催されるという。台湾の歴史における日本人の功績を評価し、後世に伝えようとする台湾の懐の深さに感心する。100年以上も前に日本人が発展させた事業が、台湾の伝統的スイーツにかかわっていると思うと、うれしくなる。

台湾の伝統的なスイーツ豆花は、小学校の給食でも定番メニューのようだ。学校の先生という職業柄、私は、台湾の小学校をたびたび訪問している。どこの学校に行っても、「歓迎 菅田老師(先生)」とピカピカと表示された電光掲示板で迎えられ、少々照れくさい。
おぼつかない中国語を話す異国からの訪問者である私を台湾の先生方は大らかに、笑顔で歓迎してくれるのである。

今年の1月、新北市の小学校を訪れた。
新北市は、台北市をくるっと囲むように位置し、訪問した小学校は、1学年12~14クラスで全校児童2000人を超える大きな学校。休み時間になると、校庭を駆け回る子ども達の元気な声が響き渡っていた。
基本的な時間割や教科は日本の小学校と似ていて、給食や掃除の時間もある。異なる点は休み時間。
授業の業間休みは10分間で、40分間授業を受けると10分校庭で遊ぶことが繰り返されていた。日本の小学校で子どもたちが校庭で遊ぶのは20分休みの時だけなので、毎時間後に外で遊んでいる様子に驚いた。

一番驚いたのは、給食を食べた後の休み時間に設けられていた昼寝の時間。

給食と昼寝の時間の様子を見学させてもらうと、給食配膳は、器を各自が持って並び、自分の食べられる分量だけ入れるスタイル。低学年でも、静かに整列して上手に行っていた。

この日のメニューは、鶏肉の煮物、野菜の煮物、白米、スープ、豆花。

私も食べさせてもらったが、日本の給食と比べても、かなりボリューミーでお腹いっぱいになり、眠気が襲ってきた。

「食べたら眠たくるので寝ましょう」というのが台湾の教育なのだ。給食後は、教室を暗くして昼寝の時間となる。教室を覗いて見ると、自分の机にうつ伏せて、子どもたちが眠っている。眠くなかったら寝ないで他のことをしても良いらしい。

昼寝の時間は、午後の学習に集中できるように、台湾の教育部(日本でいう文科省)が義務化している制度。30分程度の昼寝は、内臓器官や体を休ませるだけでなく、脳に良い影響を与え、午後3時間ある授業に集中できるという医学的な根拠もあるそうだ。
なんともほのぼのとした、昼寝制度が羨ましい。

日本の小学校では集中できない子どもが年々増加し、午後の授業になると、集中できなくなる子どもは、さらに増えているように思われる。落ち着かない子どもの指導に日本の小学校の先生達は、毎日、頭をかかえているのだから、日本の小学校にも昼寝制度を取り入れれば、効果がありそうだ。

放課後、校舎から出ると、緑豊かな校庭があった。
台湾は別名フォルモサ(ポルトガル語で「美しい島」という意味)と言われ、緑が潤う島だ。学校の植栽も日本とは趣が異なる。
庭の先には、瓦屋根の平屋の建物があり、よく見ると記念館だった。

日本統治時代(1898年)の建物が、歴史的な文化遺産として大切に保存されていた。台湾では、台湾総統府をはじめ、日本統治時代の建築物が、数多く大切に残されている。公立小学校の敷地内の建造物も、歴史遺産として保存されていることに驚いた。
その上、学校の入口には、開校からの年表が校舎の入り口に大きく展示され、なんと、日本統治時代の初代校長「小山新治」の名が明記されているではないか。

日本の瓦屋根の建物と、初代校長の日本人の名前を毎日、目にする台湾の子ども達。そんな小学校生活を送れば、自然と日本に対して、懐かしささえ抱く大人になるのではないだろうか。
統治時代にあったさまざまな苦難にもかかわらず、台湾人が持つ親日的な感情の根源は、台湾のテレビでも連日放映されている「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」等の大人気のアニメだけでなかったのだと気づかされた。

日本統治時代には抗日ゲリラが各地で起き、台北の芝山巌では、小学校を設立し、台湾人の教育に力を注いだ6人の日本人教師と用務員が惨殺される事件もあった。これが植民地統治の現実である。
しかし、その負の歴史をなかったことにせずに受け入れ、過去の記憶を伝承させながら、未来に向かって、たくましく温かい心をもって生き、台湾という自立した国を創ろうとしていることが感じられた。

訪問の最後には、校長先生から立派なホルダーに挟んだ「感謝状」をいただいた。そこには、

「日本の教育と本校の交流に協力してくれたことに感謝いたします」

と書かれていた。台湾は、日本の教育にとても関心をもっている。
そのうえ、英語教育に力を入れたり、原住民の言語や文化を尊重したり、異文化を大事にしている。多様性のある社会だからこそなのだろう。間違いや失敗に寛容である。いつも周りの反応を気にしておどおどしてしまう私は、たびたび、

「没関係(メイクワンシー)」(全く問題ないよ)

と笑顔で返してくれる台湾の人に助けられた。
素のままでいいのだとホッとする。

一方、日本の学校は、異なるものを受け入れることが苦手なように思う。みんなが同じでなくてはいけない空気感があり、慣例にこだわったり、正式な書類がないと受け入れなかったり、窮屈だと感じることがしばしばである。それは、日本人の真面目さ、良さでもあるが、異文化や多様性を積極的に受け入れる姿勢がないから、なかなか変われないのではと思う。

台湾の小学校のグラウンドの隅で青空に大きく伸びるガジュマルの木を見上げながら、時を越えて守り続けられている台湾の大らかな空気を吸いこんだ。
すると、小学校時代に通っていた校庭に高くそびえていた木の風景とオーバーラップして、みんなと違う黒いランドセルを背負っていじけていた自分を思い出し、豆花を初めて食した時と同じ、ほんのり甘い懐かしい気持ちになった。

※参考資料 
市川美奈子/文・写真 台湾の製糖業を創った男・鈴木藤三郎の足跡を巡る旅 サライ.jp 2024/10/3 https://serai.jp/tour/1199261

★ 菅田泉 プロフィール★
港区出身。和菓子屋の三姉妹の三女として育つ。
千葉大学教育学部、早稲田大学教職大学院卒。
特別支援学校教諭、日本語学級教諭を経て現在小学校教諭。
2001年から3年間、夫の仕事の関係で、駐在妻として台湾在住。


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