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バルカン半島史⑬ ~マケドニアの台頭とアレクサンドロスの東征~

ギリシャ北方にあった古代マケドニアは、現代のマケドニア(北マケドニア共和国)とは民族的に異なり、ギリシャ人の建てた国家であったが、その社会形態はギリシャ本土のポリスとは大きく異なっていた。ギリシャ各地の民主政ポリスとは対照的に、マケドニアでは世襲の王族が国を支配し、貴族の族長たちが騎兵としてそれを支える族長政治が敷かれていたのである。

前6世紀末には東の大国アケメネス朝ペルシアと同盟関係を結んだマケドニアであったが、ペルシア戦争の敗北でペルシアがバルカン半島から撤退するとギリシャ諸ポリスとの関係を強め、交易で利益を上げて国力を増強した。前4世紀半ばに即位したフィリッポス2世は、パンガイオン金鉱から産出される金貨を流通させて経済力を高め、外交や軍の整備にも努めてマケドニアをバルカン半島の最有力国へと成長させた。それはアテネやスパルタをはじめとするギリシャ諸ポリスが、長期化したペロポネソス戦争の末に自ら衰退の道をたどりつつあった時期と重なる。フィリッポス2世は独自の長槍で武装した重装歩兵密集部隊を組織して職業軍人を育成し、前338年にはギリシャ本土に侵攻。カイロネイアの戦いでアテネ・テーベの連合に圧勝し、翌年にはスパルタを除くポリスを加盟させたコリントス同盟の盟主となり、ギリシャ全土をほぼ手中に収めたのであった。

フィリッポス2世はペルシアへの遠征を企てていたが前336年に暗殺された。彼の遺志を継いだのが息子のアレクサンドロスである。アリストテレスを家庭教師としてギリシャの諸学問に通じた彼は、自らが先頭に立つ機動力と破壊力に富んだ騎兵と重装歩兵密集部隊を駆使してバルカン半島を制圧し、前334年に全ギリシャ軍を率いて東方遠征に乗り出した。圧倒的な強さで小アジア・エジプト・メソポタミアを次々と征服したアレクサンドロスは、前330年にはペルシア帝国を滅ぼし、ギリシャからオリエントに及ぶ大帝国を樹立したのだ。

彼は戦争初期こそ自由なギリシャが専制支配に苦しむアジアの民を解放するという大義名分を掲げたものの、東方に勢力を拡大するにつれて、次第に自らが専制君主化していった。征服した各地に自身の名を冠した植民市アレクサンドリアを建設し、エジプトではファラオとして振る舞い、ペルセポリスでは滅んだペルシア帝国の宮廷儀礼を採用して自身を神格化した。東西にわたる自らの支配基盤を強化するために、前324年にはペルシャの旧都スサでギリシャ軍兵士とイラン人女性たちの集団結婚式を挙行している。さらに東進してパルティア、バクトリア、ソグディアナを次々と制圧したアレクサンドロスはインダス川とカイバル峠を越えてインドにまで侵入。パンジャブの象部隊との戦いを繰り広げた。際限のない東征に疲弊した兵士たちの間には次第に厭戦気分が広がり、アレクサンドロスは方向転換してイラン高原を西進するがバビロンまで戻ったところで熱病に罹り、32歳の若さで死去する。

連戦連勝を重ねたエネルギーの塊のようなアレクサンドロスにとって自らの早すぎる死は想定外であったのだろう。彼の死後、後継者(ディアドコイ)戦争によって帝国は分裂し、前301年のイプソスの戦いを経て、前3世紀にはセレウコス朝シリア・プトレマイオス朝エジプト・アンティゴノス朝マケドニアの三国が鼎立する。アレクサンドロスの遠征は、遠い戦場に駆り出されたギリシャ軍兵士たちや征服された西アジアの多くの人々にとっては迷惑な話だったかもしれないが、結果としてそれによって東西文化の融合が進み、ヘレニズム文化という文化史上のエポックメイキングを生み出したことも事実である。良くも悪くもアレクサンドロスは、歴史に大きな風穴を開けた稀代の英雄であったと言えるだろう。

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