バルカン半島史⑰ ~キリスト教会の東西分裂と十字軍~
西暦800年、ゲルマン系の新興国家として西ヨーロッパで最大の版図を持っていたフランク王国の国王カールに対して、ローマ教皇レオ3世が皇帝の冠を授けるという事件が起こった。これは聖像禁止令以来の東西教会対立を背景としたもので、ビザンツ皇帝と一体化したコンスタンティノープル教会(東方正教会)に対して、西は西で独自の皇帝を立てることで、ローマ・カトリック教会の地位を確立させようとする狙いがあったと思われる。力はあっても権威のない新興国のフランク王国と、権威はあっても力のないローマ教会が手を組むことで、ビザンティン帝国を中心とした東ヨーロッパ圏に対して、政治・経済・文化を統合した西ヨーロッパ圏が成立したのである。
フランク王国は870年に東フランク(ドイツ)・西フランク(フランス)・イタリアの三国に分裂するが、962年にはザクセン朝ドイツ王のオットー1世がローマ教皇から戴冠を受け、皇帝・教皇の二重権力体制が本格化する。後に神聖ローマ帝国と呼ばれるこのシステムの初期には、聖職者の叙任権を握ったオットー大帝の帝国教会政策による皇帝優位の情勢が続くが、やがてローマ教会側も修道院を通じた綱紀粛正や人材育成などによって巻き返しに出る。一方、東方教会はスラブ系民族への布教を広め、ビザンツ皇帝権力と一体化して勢力を拡大した。キリスト教会内での主導権争いは激しさを増し、1054年には相互破門に至って遂に両者は分裂する。
東西分裂後、ローマ教会は聖職叙任権を巡って皇帝派との確執を強めた。一方、強大化する西方のトルコ系イスラム勢力のセルジューク朝に脅威を感じたビザンツ皇帝アレクシオス1世は、対立関係にあったローマ教皇に支援を要請した。これを自らの勢力拡大の好機と見たローマ教皇ウルバヌス2世は1095年、クレルモンでの宗教会議で聖地エルサレム奪回を掲げた十字軍の派遣を宣言。翌年には第1回十字軍が組織され、西ヨーロッパ各地からコンスタンティノープルを経て、中東へと向かったのである。
第1回十字軍は、セルジューク朝内部の混乱に乗じて聖地エルサレムを占領し、十字軍国家と呼ばれる現地政権の樹立に成功した。しかし所詮は利害関係の異なる者同士の寄せ集め集団である。まもなく聖地はイスラム勢力によって再奪回され、その後の十字軍は回数を重ねるごとに本来の目的を離れて迷走することになった。その極め付きは第4回十字軍である。
第3回十字軍の遠征途上に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世が不慮の事故死を遂げたことで、後継の幼帝の後見人としてローマ教皇インノケンティウス3世は絶大な権力を得た。1202年、教皇の提唱によって第4回十字軍が派遣されたが、輸送を請け負ったベネチア商人の東方貿易独占をもくろんだ利益誘導によって軍はエルサレムには向かわずにコンスタンティノープルを占領。ラテン帝国を建設したのである。想定外の展開に最初は激怒した教皇も、東方教会を潰してローマ教会が頂点に立つ好機とみてラテン帝国を追認。半世紀後に首都を奪回して復活したビザンツ帝国と東方教会は当然その恨みを忘れず、東西分裂は決定的なものとなったのである。
十字軍の経済的背景には、西欧の三圃性農業の発展による生産力拡大と人口増加があったという。十字軍国家やラテン帝国の建設には、余剰人口の植民活動という側面もあったわけだ。失業対策としての戦争がキリスト教世界の東西大分裂やキリスト教とイスラム教世界の対立を決定づけたことになる。内部の矛盾を外に向けての戦争で解決しようとする姿勢は安易にすぎるし、その弊害は長期に及ぶ。けれども、そうした誘惑は時代を問わず根強いようで、現代においても十字軍的な発想が随所に見られるような気がするのだ。それが宗教的な、あるいは思想的な情熱に支えられたものであるならば、なお始末に負えないものであるように思えてならないのだ。