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ローマ・イタリア史⑮ ~西欧キリスト教世界の成立~

西ローマ帝国の滅亡によって分裂状態に陥った西欧世界の人々の紐帯となったのは、帝国末期に国教としての地位を得たキリスト教であった。ゲルマン人の一派であるフランク族が建てたメロヴィング朝フランク王国では、国王クローヴィスがキリスト教に改宗。5世紀から6世紀にかけてガリア一帯に勢力を広げた。一方、北イタリアでは、オドアケルの王国を滅ぼした東ゴート王国がビザンツ帝国によって滅ぼされ、6世紀にはランゴバルド(ロンバルド)王国が建国された。そんな中で、ローマ・カトリック教会は、諸勢力と巧みに結びつきながら、自らの勢力を拡大してゆく。諸侯にとっても、キリスト教信仰がもたらす宗教的結束は、国内を固め、対外戦争を勝ち抜くためにも有効に働くものであった。とりわけ7世紀に中東で興ったイスラム教が勢力を急拡大し、北アフリカ経由で地中海からイベリア半島にまで支配を拡げると、分裂していた西欧世界は再び統一を志向するようになった。外からの脅威が統一を促すという構図は、世界史の随所で見られる動きである。

732年にトゥール・ポワティエの戦いでウマイヤ朝軍を破り、イベリア半島からのイスラム勢力の侵入を防いだフランク王国の宮宰カール=マルテルは王国の実権を握って我が子のピピンに始まるカロリング朝の礎を築いた。751年に帝位に就いたピピンは、756年にランゴバルド王国を破ってラヴェンナと中部イタリアをローマ教皇に寄進。これが教皇領の起源となった。次代のカール大帝(シャルルマーニュ)は東のアヴァ―ル人を撃退し、北はザクセンにまで版図を拡げ、南はランゴバルド王国を完全に滅ぼして北イタリアを手中に収めた。778年には西に兵を向け、ピレネー山脈を越えて後ウマイヤ朝とも戦っている。

現代のフランス・ベネルクス三国・チェコ・オーストリア・スイス・北イタリアにわたる広大な領土を支配するに至ったカール大帝に対して、教皇レオ3世は西ローマ帝国の帝冠を授ける。無論この時点で、300年以上前に滅んだ西ローマ帝国の実体などどこにもない。むしろ実体がなかったからこそ、教皇の権威を裏付けるのに都合が良かったと言えるかもしれない。東からのビザンツ帝国、南と西からのイスラム勢力(アッバース朝・後ウマイヤ朝)の圧迫を受けた危機感が西欧世界の成立を促し、ローマ教皇の宗教的権威とフランク王国の世俗的権力の結びつきをもたらしたのだ。歴史家ピレンヌは「ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」という言葉を残している。ここに地中海世界は、スラブ系民族を取り込んで東方正教を奉じる東のビザンツ帝国、アラビア半島から北アフリカ・イベリア半島まで勢力を急拡大したイスラム帝国、その狭間でローマ教皇の権威と結びついてキリスト教世界を形成したゲルマン・ラテン系のフランク王国の三代文化圏の並立をみたのであった。

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