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連載日本史㉚ 飛鳥・白鳳文化(3)

額田王は大海人皇子(後の天武天皇)と結ばれて十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、その後、皇子の兄の天智天皇の妻となった。万葉集には、天智天皇の薬狩に随行した際の宴の席で詠み交わされたと思われる、元カレの大海人皇子との歌のやりとりが記されている。

 あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)
 紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆえに我恋めやも (大海人皇子)

「野守(のもり)」は天智天皇を暗示した表現、「袖を振る」のは当時の求愛表現、「妹(いも)」は愛しい女性への呼称であり、「人妻」という言葉と併せて、何やら穏やかではない三角関係を匂わせているようにも見える。

額田王関係系図(intojapanwaraku.comより)

無論、本当に秘められた恋であるならば、こんなにおおっぴらに贈答歌を残したりはしないだろうから、宴の席の座興として詠まれたものだろうというのが定説となっている。とはいえ、かつては娘まで設けたふたりである。政治と恋愛と肉親の情の絡み合った微妙な関係を、あれこれ想像してみるのも楽しい。

額田王は白村江の戦いに臨む百済遠征軍の船出を鼓舞した歌も残している。

 熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

「熟田津(にきたつ)」は現在の四国・松山あたりにあったといわれる港湾の地名。斉明天皇も陣頭に立った遠征軍の出陣に際して、天皇になりかわって詠んだ歌だという。そうした重大な局面で天皇の意思を代弁するほどに、和歌が重要な存在とみなされていたことの証左であろう。

百人一首に残る柿本人麻呂の歌
(Wikipediaより)

「歌聖」と呼ばれた宮廷歌人、柿本人麻呂の登場も和歌の隆盛を物語るものだ。天武・持統朝に仕えた人麻呂は、長歌・短歌ともに膨大な作品を残し、枕詞・序詞などの修辞法を駆使して後世の歌人たちに大きな影響を与えた。歌のジャンルも、相聞(恋歌)、挽歌(追悼歌)、羈旅(旅の歌)と多岐にわたる。律令国家の創生期という時代を反映し、天皇賛歌が散見されるのも特徴である。額田王の例にも表れているように、政治や恋愛や祭祀や芸術が未分化のままに混沌として息づいている古代の人々のパワーが、彼らの残した歌に凝縮されているようだ。



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