連載日本史108 琉球王国
中世の沖縄、すなわち琉球は、日本とは別個の国として存在していた。沖縄島は北山・中山・南山の三つの地方(三山)に分かれ、対立しながら均衡を保っていたが、十五世紀初頭、中山王の尚巴志が浦添から首里城へと拠点を移し、まず北山・南山を滅ぼし、1429年に全島を統一した。尚氏王朝は三山時代から続く中国・明との関係を更に発展させ、福建に琉球館を置いて貿易を拡大した。室町幕府と明が勘合貿易の存廃で揺れている間も、明と琉球は継続的な冊封関係を保った。
尚氏王朝はシャム(タイ)やマラッカ(マレーシア)、マジャパヒト王国(インドネシア)や安南(ベトナム)など、東南アジアとの交易も盛んに行っていた。明が海禁政策を強めた時期には、明と日本や東南アジアの国々との間に立つ中継貿易で利益を上げた。アジアのハブ(結節点)としての存在感を示す中世の琉球王国のイメージは、現代のシンガポールのそれと重なるように思われる。十五世紀後半、尚真王の時代に、王国は最盛期を迎えた。
1458年に首里城正殿に掲げられた万国津梁鐘には、中継貿易を通して万国の懸け橋にならんとする琉球王国の衿持が、以下の銘文に記されている。
「琉球国は南海の勝地にして・・・蓬莱の島なり。舟楫を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり。」
150年以上続いた南海貿易は、大航海時代の幕開けに伴うヨーロッパ諸国の進出によって十六世紀半ばに途絶するが、明との交易はその後も続いた。その利益に目をつけた薩摩の島津氏が十七世紀初頭に琉球に侵攻してからは、琉球王国は島津氏の影響下に置かれることになるが、中世の琉球は政治・経済・文化のいずれの面でも独自の色を持った独立国家だったのである。