ローマ・イタリア史② ~貴族共和政~
前509年、エトルリア人の王を追放したローマの世襲貴族たち(パトリキ)は合議制による貴族共和政を樹立した。最高機関である元老院は貴族から選ばれた終身議員で構成され、そこから選出される2名の執政官(コンスル)も貴族に限定されていた。すなわち、共和政と言っても、ごく少数の世襲特権階級による寡頭制であり、貴族とそれ以外の階級の者との結婚は禁止されていたため、中産階級としての平民(プレブス)や無産階級市民(プロレタリー)や奴隷には政治参加の手段は皆無であった。
しかし、ローマが周辺の都市国家と争いながら支配地域を拡大していく過程で、平民(プレブス)の中でも経済的に裕福な者たちは重装歩兵として軍事力を支え、次第に存在感を増すようになった。また、平民の中でも借財に苦しみ、債務のために奴隷となった没落を余儀なくされる者も増え、階級間のみならず階級内でも格差が拡大した。貴族による権力の独占に不満を募らせた平民たちは団結して身分闘争を起こし、前494年に市内から一斉退去して郊外の聖山に立てこもり、平民の政治参加や土地の再分配、債務の帳消しなどの要求を掲げた。平民がいなければ、都市国家としてのローマの機能は成り立たない。譲歩の必要性を自覚した元老院は、平民のみの議会である平民会の設置と、その議長としての護民官の創設を認めた。護民官には執政官の行政行為や元老院の議決に対する拒否権が与えられたのだ。
身分闘争はその後も続き、その結果として前450年にはローマ最初の成文法である十二表法が完成する。これは従来の慣習法を明文化して、訴訟の手続きや裁判規則、財産や相続、犯罪や刑罰、政治や神事について、断片的ながらも全てのローマ市民が従うべきルールを明確にしたもので、後のローマ法への端緒を開くものであった。前445年にはカヌレイウス法で貴族と平民の結婚が認められ、前367年にはリキニウス・セクスティウス法で執政官のうち1名は平民から出すことが定められ、貴族の公有地占有が制限されるようになった。さらに前287年のホルテンシウス法で平民会の決議も国法と認められることとなった。ここに貴族(パトリキ)と平民(プレプス)の身分闘争は終結し、ローマの政体は貴族共和政から共和政へと移行したのである。
平民の権利拡大の過程は、ローマがイタリア半島全体へと勢力を拡大していく過程と軌を一にしている。支配地域が広がるについれて、少数の貴族だけで国政を維持していくのが困難となり、軍事的・経済的に都市国家を支えた平民層の要求を無視できなくなったということだろう。しかしながら一方で、平民出身で執政官を経て元老院議員の資格を得た者は世襲の特権を得て新貴族(ノビレス)と呼ばれるようになる。特権階級と対立しながら地位を向上させた階級が新たな特権階級となるという歴史の皮肉は、群れの中での自らの優位性を誇示するサルのマウンティングに似て、どこか人間の本能に根ざした宿命的なものなのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?