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ローマ・イタリア史㉕ ~ハプスブルグ家のイタリア支配~

16世紀から18世紀前半までのイタリアは、分裂と外国支配の時代であった。15世紀末のフランス軍のイタリア侵入から始まったフランスとハプスブルク家のイタリア支配を巡る争いは、1527年の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の「ローマ劫略」と呼ばれる破壊と略奪を経て、ハプスブルク家による支配へと傾いてゆく。

カール5世退位後、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれた。スペイン=ハプスブルク家を継承したフェリペ2世は1559年のカトー=カンブレジ条約でイタリア戦争を終結させてフランス勢力を排除し、スペインによるイタリア支配を強化した。1571年にベネチアとローマ教皇を引き入れた連合艦隊で臨んだレパントの海戦でオスマン帝国を破ったスペインは、イスラム勢力に奪われていた東地中海の制海権を奪回した。大航海時代における大西洋航路と新大陸の植民地開拓も相まって、スペインは海外領土を含めて「日の沈まない帝国」を誇ることとなる。

イタリアがスペイン=ハプスブルク家の支配に甘んじたのは、大航海時代の商業革命による経済の地盤沈下と、他の欧州諸国が主権国家体制に移行していく時代の流れに乗り遅れ、分裂状態に陥ったままの政治の混迷によるところが大きかった。だがスペイン自体も王位継承を巡る内紛から弱体化し、英仏も介入したスペイン継承戦争で優位に立ったオーストリア=ハプスブルク家がミラノ・ナポリ・サルディーニャを獲得し、イタリア半島に支配を拡大した。この間、イタリアは各国の戦利品として分割され、そこに住むイタリア人の意志などが顧慮されることはなかった。

一方、フランスとオーストリアの中間に位置したサヴォワ公国は、スペイン継承戦争でオーストリア・イギリスに協力したことで勝利者側に入り、ユトレヒト条約でシチリアを獲得した。そのシチリアをオーストリアに割譲して見返りにサルディーニャを得たサヴォワは、イタリア北西部のピエモンテとサルディーニャ島にまたがるサルディーニャ王国となった。北イタリアのトリノを首都とするこの王国が、来たるべきイタリア統一運動(リソルジメント)の核となっていくのである。

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