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連載日本史146 三都(3)

江戸時代の読本作家である柳亭種彦は「三都気質」について「京の着倒れ、大坂の喰い倒れ、江戸の呑み倒れ」と表現している。確かに京都には着物関係の職人や商家が多かった。西陣織や京染(友禅染)など、伝統工芸と結びついて発展した技術も多く、洗練された美とセンスが京文化の身上であった。陶芸の世界では、野々村仁清が京焼を大成し、後の粟田焼・清水焼の源流となっている。多くの寺社を擁する京都は、葵祭や祇園祭などの伝統を持つ祭礼都市でもあった。江戸が政治、大阪が経済の中心を担ったのに対し、京都は伝統文化の中心を担っていたのである。

京都・西陣織で使われた「髙機」の図(西陣織博物館より)

江戸時代の朝廷は、完全に幕府に実権を奪われた状態にあったが、それでも天皇家はじめ、摂関家などの公家たちは温存されていた。そもそも幕府が官学とした朱子学は、タテの秩序と大義名分を重んじる学問である。それは封建社会の統治理論としては非常に都合の良いものではあったが、一方で、その大義名分を突き詰めていけば、将軍は天皇に任命された存在であって天皇の臣下にすぎないという理屈に行き着くというリスクを抱えた諸刃の剣でもあった。

御所(禁裏)の東側に公家屋敷が密集する江戸時代の京都(rekilabo.comより)

幕府はそうした朝廷の潜在的脅威を恐れ、将軍直轄の京都所司代を置いて朝廷や公家・寺社の動向を監視するとともに、江戸や大阪と同様に、行政実務を担当する町奉行を置いた。実質的な権力は無いに等しい存在であったにせよ、幕府にとって天皇は常に目の離せない「主君」だったのである。

江戸時代の神道と儒学の関係(神道・日本文化ブログより)

文化都市京都は、学問の町でもあった。堀川周辺には伊藤仁斎が私塾の古義堂を開き、垂加神道を唱えた山崎闇斎も私塾を開いていた。1758年には闇斎の学説を継承発展させた竹内式部が、尊王思想を公家たちに広めた危険人物として市中から追放されている。尊王思想はやがて幕末には倒幕の原動力となるのだが、天皇を擁する京都がその拠点となるのは必然であった。

正徳の治を推進した新井白石は、朝鮮通信使への国書において、将軍を「日本国王」と呼称している。大義名分を重んじる朱子学者であった彼なら、将軍は天皇から任命された存在であって「国王」とは呼べないことはよくわかっていたはずである。それでもあえてそう呼んだのは、諸刃の刃としての朱子学の危険性を誰よりも理解していたからではなかろうか。無理を承知で用いた「日本国王」の呼称には、そんな彼の危機感が垣間見えるように感じられるのである。

歌川広重「東海道五十三次」の終点・京の三条大橋(Wikipediaより)

都市の機能において、政治・経済・文化の中心が分散し、それぞれが独自の役割を担っていた江戸時代の三都の在り方は、東京一極集中の弊害が叫ばれる昨今の日本に多くの示唆を与えてくれるように思われる。現在の世界に目を向けると、米国のワシントンDCとニューヨーク、スイスのベルン・チューリヒ・ジュネーブ、オーストラリアのキャンベラとシドニーなどのように、首都機能を分散させている国は枚挙に暇がない。広く他国の例に学ぶことも必要だが、身近な自国の歴史にも好例が眠っているのだ。

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