
ローマ・イタリア史⑯ ~中世イタリア分裂時代~
800年のカール大帝(シャルルマーニュ)の戴冠によってローマ教会の宗教的権威と結びついたフランク王国は西欧地域一帯に支配を及ぼしたが、カール大帝の死後、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約を経て、西フランク・東フランク・イタリアの三国に分割され、それが現在のフランス・ドイツ・イタリアの起源となった。ただし「イタリア」と言っても、半島全域ではなく、北部のみである。南部は分裂状態のまま東ローマ帝国の影響下に置かれ、地中海の支配は対岸の北アフリカ一帯とイベリア半島を支配下に収めるイスラム勢力に握られていた。しかもイタリアにおけるカロリング朝の王位は875年に早くも断絶し、以降のイタリア半島は、中世から近代初頭に至るまでの長い分裂期に入る。
農業や交易を通じて経済的に豊かであった北イタリア地域では、ジェノバ・ミラノ・フィレンツェ・ヴェネチア等の都市国家が成長し、11世紀の十字軍遠征開始を契機として東方貿易の拡大にも乗り出した。こうした都市国家群の繁栄は、次代のルネサンス勃興への下地となる。
中部イタリアでは、教皇領を核としたローマ教会の力が強かった。だが、教会内部の腐敗は深刻で、962年に神聖ローマ帝国の皇帝となったザクセン朝ドイツ王のオットー1世は、聖職叙任権を一手に握り、教会秩序を建て直すとともに、教会の権威を最大限に利用しようとした。以降、皇帝の世俗的権力と教皇の宗教的権威の相克は、中世キリスト教世界における最大の政治問題となってゆく。
一方、東ローマ(ビザンツ)帝国の支配を受けていた南イタリアとシチリアでは、9世紀にはイスラム、11世紀にはノルマンの侵入による支配を受けて政情不安が続いた。12世紀半ばにはノルマン人の建てた両シチリア王国が南イタリア・シチリア・北アフリカにまたがる広域支配を実現したものの、13世紀には王国の政治的混迷と経済的衰退に乗じた他国の介入により、またもや政情は不安定になった。14世紀初頭、両シチリア王国は、フランスの支配を受けるナポリ王国とスペインの支配を受けるシチリア王国に分裂。イタリアに触手を伸ばす神聖ローマ皇帝の動きも依然としてやまず、強国同士のパワーゲームに翻弄される地域と化したのである。
一口に分裂状態と言っても、以上に見たように北部・中部・南部において、その様相にはかなりの違いがある。第一に経済力、第二に自治意識、第三に宗教の求心力における格差があり、それらの格差が北部の都市国家群の繁栄と南部の混迷につながったのではなかろうか。特に前二者は、現代においても地域格差の問題を考える上で必須の要素だと思われるのである。