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連載 スイスの歴史⑥ 傭兵と中立
建国以降、山岳地帯の防衛戦では無敗を誇ったスイス同盟軍も、勢いに任せて打って出た平地での戦いでは大敗を喫することになった。1515年、フランス軍とのマリニャーノの戦いである。ここでスイス軍はそれ以上の勢力拡張を諦めたのだが、フランス王フランソワ一世は敗者であるスイス同盟軍に異例の報償金を払い、傭兵契約を申し入れた。精強なスイス兵をフランス軍の戦力として利用しようとしたのである。以後、フランスのみならず、欧州各国が、スイス兵を傭兵として迎え入れることになる。
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16世紀以来の傭兵の歴史の名残を示す
産業革命以前には、山国であるスイスには酪農以外に目立った産業はなく、国内で食べていけない余剰人口は職を求めて国外へ流出せざるをえなかった。すなわち傭兵は、スイスにとって重要な出稼ぎ産業となったのである。
傭兵たちが文字通り体を張り、血を流して持ち帰った財は国内に蓄積され、銀行をはじめとする金融業や、産業革命以後の綿織物業、時計に代表される精密機械工業などの起業の原資となった。その際には、傭兵たちのもたらした各国との人脈や情報網が大いに役立ったのも確かである。
傭兵の存在はスイスの中立維持にも大きな役割を果たしたようだ。1990年代に警察庁長官としてオウム真理教から狙撃を受けた経験を持ち、1999年から3年間スイス大使を務めた國松孝次氏は、自著「スイス探訪」の中で、傭兵と中立の関係について、こう述べている。
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(2003 角川書店)
『16世紀から18世紀にかけて、スイスの中立が維持できたのは、まさに傭兵の供給をめぐるスイスと諸国の利害が一致したからにほかならない。
スイスの側から見れば、中立であるからこそ、どこの国にでも傭兵を供給することができた。諸国の側から見れば、中立国であるが故にスイスでの傭兵の徴募は自由にできたし、さらにいえば、スイスに中立を認めるかわりに有能なスイス人傭兵を傭うことができたのである。
スイスの傭兵制度と中立政策は一種の裏表の関係にあったといえる。もちろん、現在のスイスの中立政策を傭兵制度を踏まえて説明しようとするのは、的はずれもいいところで、当然のことながら現下の国際情勢の中で把握されなければならない。しかし、その起源的段階において、中立と傭兵は相互に深くかかわっていたのは間違いのないところである。』
もちろん、傭兵は「血の輸出」であり、当時のスイスの貧困を象徴するものでもあった。スイス中部の風光明媚な観光都市ルツェルンには、フランス革命の際にルイ十六世一家を最後まで守って全滅したスイス傭兵の慰霊碑として、瀕死のライオン像がそびえている。戦乱の絶えなかった欧州では、スイス傭兵同士が敵として殺し合わざるをえない悲劇も、何度となくあったことだろう。
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1848年の憲法制定以来、スイスは一切の公的傭兵を禁止した。傭兵の歴史はスイスにとっては暗い過去に属するものなのかもしれない。だが、少なくとも初期の段階において、スイスの中立は傭兵の存在によって支えられていたこと、そうした冷徹な国際政治のリアリティがあったからこそ、欧州の大国の狭間でスイスの平和が維持できたことは記憶されるべきだろう。現在も中立を国是として掲げるスイスには、理念だけでなく、その礎の下に眠る傭兵たちの存在が息づいているように感じられるのである。