連載日本史⑨ 邪馬台国(3)
(b) 邪馬台国が近畿にあったと仮定した場合
邪馬台国畿内説の重要な根拠のひとつは纒向(まきむく)遺跡の存在である。奈良県桜井市に位置し、弥生時代末期から古墳時代にかけてのものと推定される纒向遺跡は、弥生中期の唐古・鍵遺跡の十倍の規模を持ち、この時代にムラからクニへの統合が進んだことを示している。この遺跡こそが邪馬台国の跡地であり、遺跡に含まれる最古の前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳こそが卑弥呼の墓なのではないかというのである。
もちろん、これが邪馬台国の遺跡そのものだという確証はない。しかし、遠く魏に使者を送って「親魏倭王」の称号を受けたと記録されている卑弥呼と邪馬台国である。それなりの規模と政治力を持ったクニであったことは間違いない。これだけの規模を持った遺跡が九州から出土していない以上、遺跡という観点から見れば畿内説の優位は明らかだと言えよう。
纒向遺跡が邪馬台国の跡地だとすれば、邪馬台国は大和政権の前身であり、卑弥呼は天皇家の祖先である、という仮説も成り立つ。古事記や日本書紀には、天皇家に連なる神話時代の物語として天照大神(あまてらすおおみかみ)の話が登場するが、この天照大神こそが卑弥呼を指しているのではないかという説もあるのだ。
無論、邪馬台国が畿内にあったからといって、直ちに大和政権と結びつけるのは早計だとも言える。同じ文化圏の中で主導権を巡って争った末に、天皇家を中心とした大和政権が邪馬台国を滅ぼして覇権を握った、というシナリオも十分に考えられるからだ。また、天皇家自体がもともと九州にあり、それが周辺諸国を制圧しながら東へと攻め上り、畿内にあった邪馬台国を滅ぼして大和政権となった、という可能性も高い。古事記や日本書紀では天皇家の祖先は高千穂(現在の宮崎県)に降臨したとされ、初代神武天皇は「東征」を行って諸国を平定したことになっている。この説をとると、銅剣・銅矛文化圏の中心となった九州武闘派連合の盟主は天皇家であり、銅鐸文化圏の中心であった畿内連合の盟主が邪馬台国ということになる。卑弥呼や壱与の死後、武闘派が東へ攻め上って邪馬台国を滅ぼし、大和政権として君臨したというわけだ。いずれにせよ、「仁義なき戦い」であることには変わりないけれど…(^^;。