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「国語」と「日本語」 ~国語教育と日本語教育④~

次に国語教育と日本語教育について、それぞれのカリキュラムとシラバスを比較してみよう。

カリキュラムとは教育目標を達成するために学習者の発達段階に応じて学習内容を順序立てて配列したもので、教育課程と訳されることが多い。一方、シラバスとは、カリキュラム設定に沿って組み立てられた授業計画の大要のことである。カリキュラムがフルコースの料理全体を指すものだとすれば、シラバスはそれを構成する個々の料理のメニューだと考えていいだろう。

目標が異なればカリキュラムやシラバスも異なるのは当然のことだが、たとえ目標が同じであっても、そこに至るまでのプロセスが異なる場合もある。特に生身の人間を相手にする教育という分野では、同じ目標を掲げながらも、そこに至るまでの方法論は千差万別であることがむしろ普通なのだ。

国語教育においては、それが日本の初等・中等教育に位置づけられた学校教育の一部であり、日本語母語者を対象として、言語能力の伸張や言語文化への理解や文学鑑賞、ひいては言語教育を通じた情操教育まで含めた目標設定がなされていることが多く、カリキュラムやシラバスもそれに応じて総花的なものになりやすい。たとえば中2の国語教科書に掲載されることの多い「走れメロス」を例にとると、新出漢字・語彙の習得のみならず、物語の内容把握、登場人物の心情理解、作者の太宰治についての文学史的知識、学習者の感想や意見の交換など、作品を軸として、多くの要素が同時に含まれる学習活動がデザインされることになる。中3では魯迅の「故郷」、高校では芥川の「羅生門」や漱石の「こころ」など、定番教材は段階を追って易から難へと配列されているものの、その総花的性格は一貫している。評論教材においても、心情理解が論理構成の把握に入れ替わるぐらいで、基本的な構成はさほど変わらないだろう。かくして、国語を苦手とする生徒の「何をやれば成績が上がりますか?」という問いに対して、教師の側は「とりあえず本をたくさん読もう」という抽象的なアドバイスに終始せざるをえないという状況が起こるわけだ。

料理にたとえるならば、国語教育のカリキュラムやシラバスは、あらゆる材料がごった煮になったちゃんこ鍋のようなもので、目の前に盛られたものをひたすら食べ続けているうちに、中身が何なのかが次第にわかってくるというような鍋料理的傾向が強い。そこには時折、教師の個人的な価値観までもが紛れ込んでいることもあり、「国語の試験の答えは先生によって違うのではないか」という生徒の不平にもつながるわけだ。そう考えると、ちゃんこ鍋というよりは、闇鍋に近いと言ってもいいかもしれない。

一方、日本語教育のカリキュラムやシラバスは、年齢層の幅広い日本語非母語者を対象としたものであり、海外における学習者にとってはJFL(Japanese as Foreign Language=外国語としての日本語)の習得、日本国内の学習者にとってはJSL(Japanese as Second Language=第二言語としての日本語)の習得という、国語教育に比べてかなり範囲の絞り込まれた具体的な目標設定によるものとなる。料理にたとえれば、輪郭のくっきりしたひとつひとつのメニューが順序立てて提供されるコース料理といったところだろうか。

もちろん先述したように日本語教育の学習者層は多岐にわたり、何がポイントとなるのかも学習者によって異なる。漢字文化圏の学習者には文字の習得は比較的容易であろうから発音や会話練習に時間を割くべきだとか、家族の赴任で急に日本で生活することになった学習者には日常生活で必要な語彙や表現を精選して短期集中で教えるべきだとかいうように、目標設定が具体的であるがゆえに、そこに至るカリキュラムやシラバスも個々のニーズやレディネスに応じた個別具体的なものになっていくわけである。そういう点では日本語教育のカリキュラムやシラバスは、国語教育よりは、成人学習者も含めた英語教育の方に近くなると思われる。そこで次は英語教育と比較しながら、日本語教育のカリキュラムやシラバスについて考察してみたい。

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