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連載日本史㉟ 平城京(4)
720年、大宝律令の改訂版である養老律令の編纂にあたっていた藤原不比等が死去すると、朝廷内部での主導権争いが起こった。まずは右大臣となった長屋王である。天武天皇の孫にあたる長屋王は、不比等の敷いた律令政治路線を継承し、皇族政治家として優れた手腕を発揮したが、義姉である元正天皇の死後、不比等の孫にあたる聖武天皇が即位すると、不比等の息子たちの藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)との間に確執が生じる。729年、謀反の罪を着せられた長屋王は、藤原四兄弟に追い詰められて自害した。いわゆる長屋王の変である。
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長屋王の死後、藤原四兄弟は、妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、政治の実権を握る。ところが、それから八年後、天然痘の大流行により、四兄弟は次々と命を落とすのである。無実の罪で死に追いやられた長屋王の祟りであると、世間では噂されたようである。
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四兄弟の死後は、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)や、遣唐使から帰朝した玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)らが活躍するが、740年、今度は四兄弟のひとりであった藤原宇合(うまかい)の息子である藤原広嗣(ひろつぐ)が、九州で反乱を起こす。醜い権力争いに嫌気がさした聖武天皇は、伊勢神宮への行幸を契機に平城京を離れ、恭仁(くに)・難波(なにわ)・紫香楽(しがらき)と、五年の間に次々と遷都を繰り返す。混乱の極みである。流浪の末に平城京に戻り仏教に救いを求めた天皇は、各地に国分寺建立の詔を出し、さらに東大寺の大仏建立の詔を発した。749年、天皇は独断で娘の孝謙天皇に譲位し、出家してしまう。よほど政治の世界が嫌になったのだろう。752年、東大寺大仏の開眼供養が行われた。あの巨大な大仏は、聖武天皇の抱えていた精神不安の大きさを象徴しているのかもしれない。工事に動員された民百姓にとっては、いい迷惑であっただろうが・・・。
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(Wikipediaより)
757年、藤原四兄弟のひとりであった武智麻呂の息子である仲麻呂が実権を握り、祖父の代から一時中断されていた養老律令をようやく施行する。ところが今度は橘諸兄の息子である奈良麻呂が反乱を企てた。未遂で逮捕された奈良麻呂は拷問死したといわれる。政敵を排除した仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と改名し、藤原氏の中でも自分の一門だけに権力を集中して一時の栄華を誇るが、それも長続きはしなかった。母親の光明皇太后の看護を理由に譲位していた孝謙上皇が、皇太后の死後、政治の世界に戻ってきたのだ。孝謙上皇は禅僧の道鏡を寵愛し仲麻呂(恵美押勝)と対立した。764年、仲麻呂は反乱を起こす。いわゆる恵美押勝の乱である。反乱は失敗に終わり、仲麻呂勢力は政界から一掃され、孝謙上皇は称徳天皇として重祚(再即位)した。
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道鏡の天下も長くは続かなかった。769年、自らの皇位継承を画策した宇佐八幡宮の神託が虚偽であったことが発覚し、翌年、強力な後ろ盾であった称徳天皇が死去すると、その年のうちに左遷され、二年後には死去したという。その後は再び、藤原氏のもとに権力が戻ってくる。
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権力争いに明け暮れた奈良時代の政界であるが、もちろん良い事もあった。そのひとつが、光明皇后の慈善事業であろう。藤原不比等の娘であり、聖武天皇の妻であった彼女は、貧しい人々への施しを行う悲田院や、医療施設である施薬院を創設して社会的弱者の救済を積極的に行った。重症の癩病(ハンセン病)患者の膿を自らの口で吸い出したという伝説も残っている。彼女も、夫と同様、世の乱れに心を痛めていたのだろう。そんな世を作り出してしまった藤原一族の血をひく皇后としての、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。