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連載日本史191 自由民権運動(1)

明治六年(1873年)の政変で西郷とともに下野した板垣退助らは、武力ではなく言論の力で政府に対抗しようと考えた。自由民権運動の始まりである。1874年1月、板垣は後藤象二郎らと共に民撰議院設立建白書を政府に提出。明治政府が薩長を中心とした藩閥専制政治になっていると批判し、国民の代表による議会を早期に開設すべきだと主張した。これが新聞紙上に公開されたことで多くの人々が議会制民主主義の概念を知ることなり、国会開設に向けての議論が広まった。故郷の高知に帰った板垣は立志社を設立。翌年には大阪で愛国社を設立して運動の全国展開へと乗り出す。一方、政府は大阪会議で板垣と木戸孝允の参議復帰を決め、漸次立憲政体樹立の詔を発して元老院・大審院を設置するなどの懐柔策をとったが、やがて運動への弾圧に転じ讒謗律や新聞紙条例によって反政府的な言論や集会を厳しく取り締まった。

板垣退助(sakura-paris.orgより)

西南戦争が終結し、武力による抵抗の不可能性が明らかになると、言論による民権運動への期待は更に高まり、1880年には国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白書が多数提出された。政府は集会条例を発して弾圧の姿勢をとったが、政府内でも国会即時開設を主張しイギリス流の議員内閣制の憲法論を掲げる大隈重信と、国会開設は時期尚早だとしてドイツ流の欽定憲法論を掲げる伊藤博文が鋭く対立。民間でも矢野龍渓・千葉卓三郎・植木枝盛・片岡健吉らが多様な私擬憲法(憲法私案)を発表し、憲法制定と国会開設を巡る議論は大きな盛り上がりを見せた。

大隈重信(Wikipediaより)

1881年7月、開拓使官有物払下げ事件が起こった。官営で開拓した北海道の農園・炭鉱・倉庫・船舶・工場などを民間に払い下げて産業振興を図る過程で、開拓使長官の黒田清隆が同郷の薩摩出身の政商・五代友厚に不当な安値で払い下げようとしていると新聞が報じたのである。藩閥政府への不満を募らせていた勢力はこれに反発し、払い下げ中止を求める世論が沸騰した。ところが伊藤は、この機に乗じて批判勢力の筆頭である大隈を政権から追放するという動きに出たのだ。明治十四年(1881年)の政変である。

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