イエロームーン
今年の夏は、特に暑い。終業し、事務所を出たが、ほぼ正面から射す西日は容赦なく、日中照らされ続けた石畳の道は灼熱である。一寸先は闇ではなく、陽炎で揺らいでいる。先が見えないという意味では、陽炎も闇の一つなのかもしれない。
仕事を終えたという解放感はなかった。この暑さだ。帰宅という一仕事が、まだ残っている。
不意に、前を歩いていた長身の男性が足を止め、振り返った。目が合った。彼は、透きとおるブルーグレーの眸をしていた。
出で立ちから、おそらく、外国からの旅行者だろう。東京や京都の比ではないが、爆心地となったこの街にも、外国からの訪問客は少なくない。
わたしは、元来の引っ込み思案と、外国語がからきし苦手であるため、外国の方とコミュニケーションには、特に苦手意識を持っている。彼から話しかけられたらどうしようと戸惑い、咄嗟に目を反らした。
しかし、首を少し傾げた彼の微笑みには、こちらを引きつける何かがあった。
もし何かに困っているなら、手助けしなくてはと思い直した。大体、わたしは、これほどコミュニケーション下手でありながら、一応は、観光業界に属する人間なのだ。この国の、この街に、遥々来てくれた人を、決して無下にはできない。むしろ、率先して声をかけるくらいでなければ。
目を上げると、彼は佇み、こちらを見ていた。再び目が合うと、白い歯を見せて笑った。やはり魅力的な笑顔だ。
彼は、手のひらに、白い卵を載せていた。そして、わたしに合図するように目配せをしながら、卵の載る手のひらを、地面と水平に掲げてみせた。おそらく、鶏の卵だ。彼の丁寧な触れ方からも、壊れやすく、繊細なもの。まさか、手榴弾ではあるまい。
目で(何でしょうか?)と彼に問うた。不躾なまでに警戒心を露わにし、怪訝な顔をしていたと思う。
次の瞬間、彼は、卵を宙へ、後方のわたしのほうへ、放り投げた。
卵が空に弧を描く軌道を、呆然と目で追った。そして、咄嗟に、卵をキャッチするべく、手を伸ばしていた。
わたしは瞬時に、(卵はきっと、わたしの手のなかで割れてしまう。殻と白身に守られているはずの黄身も潰れ、指の隙間からこぼれて、灼熱の鉄板のような石畳の熱で、いびつな形で黄色く焼かれるのだろう)と思った。そのさまを見たくはなかった。手を汚したくもなかった。でも、他に何ができただろう。
卵を手にした瞬間には、思わず目をつむり、目を背けた。しかし、割れた感覚はない。恐る恐る目を開けて見てみると、わたしの手のうちにあったのは、卵ではなく、檸檬だった。どうやら、卵が檸檬に変わったらしい。
何の手品かと驚きつつ、わたしは、檸檬をまじまじと見た。すっと、清々しい香りが鼻を抜けた。目が覚めるようで、うだる暑さも、ひととき忘れるほどだった。ハラハラさせられたので、結果的にではあるけれど、粋な手品だと思った。卵は割れず、爽やかな檸檬に変わったのだから。
まるで、梶井基次郎の冴えた檸檬のようだと思った。「レモン哀歌」の、すずしく光るレモンも思い起こされた。
彼の元まで歩いて行き、檸檬を手渡そうとすると、彼は茶目っ気たっぷりに笑いながら首を振り、受け取らなかった。英語なのでよくわからなかったけれど、ジェスチャーを見るに、どうやら次は、わたしに檸檬を投げてくれということらしい。
にこやかな彼に、そっと背を押されたわたしは、ためらいつつも、彼を追い越して数メートル先まで歩いて行き、振り向くと、彼へ向けて、下手から檸檬を放り投げた。
檸檬の描く放物線を、二人して目で追った。眩しい西日に照らされて、時折、光に隠されながら。
わたしの投げた檸檬は、彼の手にキャッチされたとき、柚子に変わっていた。
「What's this?」(これは何ですか?)
彼は、駆け寄ってきて訊ねた。さすがに、わたしでも聞き取れる英語だった。彼の驚いている様子から、どうもこれは彼の手品ではないのだと気づいた。
不可思議に思いつつ、慎重に、拙い英語でこたえた。通じるかどうか、心許なかったけれど。
「Yuzu. It is Japanese citrus」(柚子です。日本の柑橘です)
「Oh, Yuzu! I like YUZU Hanyu! It's a perfect name for him」(ユズ!ぼくはユズ・ハニュウが好きです!彼にぴったりな名前ですね)
(いや、羽生結弦は柚子とは関係ないと思うけれど)と思いつつ、訂正する英語力は、わたしにはなかった。
「I also like the Japanese author Haruki Murakami. You know, right?」(ぼくは、日本の作家の村上春樹も好きです。ご存知ですよね?)
「Yes, of course」(ええ、もちろん)
読んだことがあるかどうかは別として、村上春樹を知らないJapaneseの方が少ないだろう。世界的大作家だ。しかし、Haruki Murakamiの名を契機に、会話を弾ませられるほどの機転も英語力も、わたしにはなかった。情けなく、縮こまる思いだった。
しかし、彼は、お構いなしに話しかけてきた。とはいえ、わたしの不安げな面持ちから察したようで、一つひとつの単語を区切りながら、ゆっくりと話してくれた。
「I think Haruki Murakami's speech about walls and eggs is important」(ぼくは、村上春樹の「壁と卵」のスピーチを大切に思っています)
walls and egg、壁と卵のスピーチ。
というスピーチだ。そう、わたしも、「常に卵の側に立つ」と心を震わせたのだった。なにはともあれ、弱いものの側に立つと。
「Me too」(わたしもです)
わたしは、まっすぐ彼の眼を見つめ、大きく頷き、同意した。心が通うのを感じ、緊張が解けた。
しかし、だからなのだろうか。彼が卵を投げたのは。卵が檸檬に変わったのは。これは、魔法か何かなのだろうか。
「I'm Isaac. Call me Ike」(ぼくはアイザックです。アイクと呼んでください)
彼が名乗ってきた。アイクがアイザックの愛称であることを、わたしはこのときに初めて知った。
「I'm Nico」(わたしはニコです)
漢字だと、わたしの名は「仁湖」なのだけれど、英語で自己紹介するときには、「Nico means of smile in Japanese」(ニコは、日本語では、スマイルを意味します)と言い添えることにしている。全くわたしに不似合いなジョークだ。そして、ニコちゃんマークのスマホケースを見せるまでが決まりだ。ぎこちない笑顔と共に。
「This is also yellow」(これも黄色ですね)と、彼はスマホケースを見つめながら言った。
そのとき、気づいた。(そうか、わたしたちは黄色いものを投げ合っていたのだ)と。
「My name also means laugh. We're together」(ぼくの名も、笑いを意味します。ぼくらは同じですね)と、さらに彼は付け加えた。
うまくわからなかったので、「Together?」(同じ?)と訊ねた。
彼は、「Yes, WE BOTH LAUGH」(そう、ぼくらは共に笑う)と、こたえた。彼の大ぶりなジェスチャーが可笑しくて、わたしたちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
その後、わたしとアイクは……
柚子をプーのぬいぐるみに(アイクからニコへ)プーをバナナに(ニコからアイクへ)
バナナをとうもろこしに(アイクからニコへ)
とうもろこしを菜の花に(ニコからアイクへ)
菜の花をミモザに(アイクからニコへ)
ミモザをたんぽぽに(ニコからアイクへ)
たんぽぽをひまわりに(アイクからニコへ)
変えて、〈黄色のキャッチボール〉をして遊んだ。柚子以降は、わたしたちが、それぞれイメージしたものが、相手に届いた。花に変わってきてからは、投げるというより手渡すようになり、わたしたちの距離も縮まった。
もう、すっかり日は暮れていた。
久しぶりに童心に帰って遊んだ気がする。暑さのせいで火照っていたのもあるけれど、心がとてもほかほか、ほくほくしていた。一緒に遊ぶときには、言語の壁はないことがわかって、ほっとしたのだ。
バベルの塔のせいで、神の怒りに触れ、一つだった言語がバラバラになってしまったというけれど、わたしたちは、色も、花も、果実も、柑橘の香りの鮮烈さも、卵のフラジャイルも、笑いも、共通して持っている。
YUZU Hanyuも、Haruki Murakamiも、共にlikeしている。
色のキャッチボールには、言語のみならず、性差や体格、体力も関係ない。勝負ではなく、優劣もなく、すこしのひらめきとユーモアで、対等なコミュニケーションができる。何も思い浮かばなくても、手放して託せば、きっと、魔法か何かが助けてくれる。
わたしはこれまで、何を恐れていたのだろう。
「Sunflower, your flower」(ひまわりは、あなたの花)
わたしは、アイクへ、ひまわりを差し出した。そのひまわりには、けだるい真夏の夜の底に、小さな太陽が降りてきたような神々しさがあったから。
「No, it's your flower. Even the flowers are smiling. Smile Nico. You're so beautiful」(いや、きみの花だよ。どんな花も微笑んでいる。笑って、ニコ。きみはとても美しい)
アイクは、ひまわりは受け取らずに、事もなげに言った。嬉しかったけれど、ドギマギしてしまった。こたえに窮し、照れ隠しに訊ねた。
「Where are you from?」(あなたはどこから来たの?)
「I'm from Denmark」(デンマークから)
それから、わたしたちはベンチに腰掛け、Googleの翻訳機能を駆使しながら、英語で話をした。デンマークの公用語はデンマーク語だけれど、デンマークのほとんどの人が英語も話せるのだという。
わたしは、なぜ卵だったのかを訊ねた。アイクは、わからないと言った。
黄金色の夕日に烟るケサランパサランに、思わず手を伸ばしたら、掌のなかに卵があったのだという。そのとき、イースターエッグを見つけたような喜びがあり、新たな何かが生まれる直観があったという。
天から与かった卵は決して割れることはないと信じていたし、誰かと分かち合いたい衝動に駆られ、わたしへ向けて放っていた、という次第らしい。
そのうち、東の空に、大きな黄色い月が昇ってきた。そういえば、今日は満月だ。
「Yellow moon」(黄色い月)
わたしは、月を指さしながら言った。
「It looks yellow. I thought the moon was white」(黄色く見えるね。ぼくは、月は白いものだと思っていた)
聴くと、どうも、彼の国では、月は白いもの、という認識であるらしい。
そこで、わたしは、日本の子どもの多くは、月の絵を描くとき、黄色に描くという話をした。そうしたら、彼は、彼の国では、黄色に描くのは月ではなく太陽だという話をしてくれた。
「Interesting!」(面白い!)
違いが面白く、わたしたちは笑い合った。
「でも、日本語では、太陽の軌道は黄道、月の軌道は白道というのだけれど」という余談も加えて、また笑った。黄色いsunflowerを片手に、黄色い月を眺めながら。
「You know? The moon sees everything in the world, illuminating it beautifully」(知っている?月は、世界中のあらゆるものを見つめ、美しく照らすんだ)
そう、月は、そのまなざしで世界を美しく照らす。そして、語りかける。地上に生きる一人ひとりに。
デンマークの作家アンデルセンの書いた『絵のない絵本』は、月が世界中をめぐるなかで見聞きしたことを、貧しい画家に語る物語だ。
奇しくも、アイクも画家なのだという。
「I'll draw the yellow moon I saw with you」(ぼくも、きみと眺めた月を黄色に描くよ)
わたしは微笑み、話を継いだ。
「‛The moon is beautiful‚ means ‛I love you‚ in Japanese」(「月が綺麗ですね」は、日本語では、「愛しています」を意味するんですよ)
これは、夏目漱石が、英語の教師時代に、「I love youは、月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と話したという、噓か誠かは知れないまま広く知られている逸話である。
「Really? Fantastic! ツキガキレイデスネ」(ほんとうに?すばらしい!月が綺麗ですね)
共に、〈笑う〉という意味の名を持つわたしたちは、ふたたびみたび笑い合った。