中編小説『最初の人』⑥
昼食をとり、校舎に戻ると、一日の授業を終えた浪人生たちの対応が始まった。俺は今日、二人の浪人生と面談することになっている。どんなに悩みを自分が抱えていても、彼らに対しては良き相談相手の役割を果たさなくてはならない。それがプロだ。プロということを考えると、他の職業のことに思いが至る。悩みがあってもパイロットは空を飛ばなければいけないし、パン屋もパンを焼いてそれを売らなければいけないし、芸能人なんてそれを画面越しに悟られないように笑わなければいけない。
そうしなければ、生きていけないからだ。
生きるには、働かなければいけない。
それが義務であり、社会を動かすシステムになっているからだ。
長い歴史が作り上げてきたこのシステムに逆らう者は、引きこもりや路上生活者へと簡単に転落する。
しかし、そのシステムに従えば、家庭を持ち、家族と共に生き、子孫を残し、孫に看取られながらこの世を去るレールの上を走ることが可能である。だから、みんな愚痴を言いながら、酒をガソリンにしながら、旅行を一時の逃避としながら、身を粉にして働いている。
一人目の生徒は男の子で、地元の高校に通っていた。予備校に通って新しい友達ができたが、その友達との関係が悩みだと告白した。仲は良く、一緒にいて楽しいが、その友達と付き合うことで勉強の方が疎かになっている。よく息抜きと称してカフェやゲーセンに誘われる。彼といるのは確かに息抜きにはなるが、もっと勉強に専念したい。
彼の主張には友達を思いやる気持ちがこもっていて、情に厚い子だなと感心する。勉強したいときには友達にはっきりとそのことを伝え、自分の意志を大切にした方がいい。友達の誘いを断るのは申し訳なく思うだろうが、そうしないと長くは続かない。俺は彼の気持ちを汲み取った上で、自分なりのアドバイスをする。
二人目の生徒は都内の有名私立高校出身の女の子だった。友達も多く、よく女の子の集団でいるところを目にした。彼女の悩みは勉強の仕方についてだった。浪人生になって、今一度勉強の仕方を改めてみると、どう勉強するのがいいか分からなくなってしまったようだ。
俺は自分の受験期の勉強法を説明した。もう何度も説明していることだ。序盤に英語の基礎固めをし、中盤に国語に徐々に力を入れていき、終盤に暗記科目を詰め込む……。
ある程度、受験勉強を行い、ある程度の高倍率を勝ち抜いて大学に行った俺は、自分のアドバイスに自信を持っている。ただ、今ではネットでも動画でも、情報が飽和していて、勉強法についての情報なんて、掃いて捨てるほどある。こうして、生徒と面と向かって対峙していると、なにを言うかより、誰が言うか、で決まるのだと、強く実感する。
夕方になると学校を終えた高校生で賑わった。窓口には若々しい力を漲らせた制服姿の男女に溢れ、俺も事務作業を一時中断し、その対応に回った。
彼らは輝かしいオーラをまとっていた。いやでも発揮されるそのオーラは高校時代特有のものであろう。俺は女子高生の姿に、高校時代の初恋の子の姿を想像してみる。純白のブラウスに短いスカートを履いて、キーホルダーのいっぱいついたスクールバッグを背負いながら、ブラウンのローファーを踏み鳴らして高校へ通っていただろう彼女の姿を。
セーラー服を身に纏った彼女たちに、初恋の子を投影していると、二人組の女子高生が窓口にやってきた。
「テキスト忘れちゃったので、貸してほしいんですけど……」
黒髪の方の女の子がいった。茶髪の女の子は付き添いのようで、無言で俺の方を見つめていた。
「テキスト忘れちゃったのね。なんの教科?」
「高2のハイレベル日本史です」
「持ってくるから、待っててね」
俺は予備のテキストが置かれてる棚に、テキストをとりに向かった。二人は初恋の人とは似ても似つかないが、その純粋無垢な瞳に戸惑う。大人でもなく、子供でもない、どっちつかずの宙ぶらりんな存在。背も伸び、胸も発育されて、オシャレにも本格的に気を使うようになるが、まだ子供のような恋愛をしている時期。そんな時期の初恋の子に出会いたかった。皺ひとつない滑らかな手を握り、小学生の頃のように、一緒に帰宅したかった。
人間は誰しも変態性を持っていて、それを飼い馴らすために妄想に興じ、妄想によって自分の欲望をセーブするのではないか。
「はい、持ってきたよ」
彼女にテキストを手渡す。
「ありがとうございます」
黒髪の女の子は貸し出し名簿に名前を書いて、窓口を去っていった。二人はなにかから解き放たれたかのように、笑い合っていた。
(続)