渡し守 第六話
【第六話】 夢
のぞみさんの説明を聞いて、やっと自分の置かれた状況を少し理解することができた。なるほど。私が存在し続けてるっていうのも、今はとても奇妙なわけね。うん、それじゃあ……。
「のぞみさん、私はとても不思議な気持ちです」
「え?」
のぞみさんが、顔を上げて私を見た。
「だってね。神納さんがこのプログラムを作るにあたって、私に感情を与える必要はどこにもなかったはず。死に臨む人の心に余計な波風を立てないように、私は機械のようにただ淡々とそれらの人の手を引いて、川を渡せば良かったはずです」
「うん」
「でもね、少なくとも私はここでは『生きて』いる。単なる機械ではなくて、意志を持った渡し守として。のぞみさんほどのはっきりした喜怒哀楽は持っていなくても、退屈だとか、暇を持て余すって感覚は持っています。のぞみさんが来てからはのぞみさんの行動や言動を面白いと感じるし、のぞみさんが教えてくれた感覚がどんなものかを想像している。私が単なるプログラムだったとしたら、そうはならないでしょう?」
「……そうだね」
一度立ち上がって、大きく手を振り上げながら伸びをした。
「ふーう」
今までは全く風がなかったのに微風が吹いている。川上から来る風が水面にさざ波を立て始めた。薄曇りの空も徐々に濃淡が強くなってきている。川面をゆっくりと見回しながら、のぞみさんにも注視を促した。
「ほら。ここも変わってきました」
水面に伸ばした私の指を、のぞみさんが目で追った。
「これはね、変わったんじゃない。私たちが変えたんですよ」
「どういうこと?」
「のぞみさん、まだ気がつきませんか?」
「え? え?」
「のぞみさんが最初にここに来た時に、お弁当を食べたり、お茶を飲んだりしましたよね」
「そうだったね」
「あれはプログラムには必要のないこと。死を目前にした人に、現実に引き戻す要素を与えるのは酷ですから。じゃあ、なぜのぞみさんには出来たのか。たぶん、のぞみさんがこの世界を創ったからでしょう」
「創った?」
「そう。ここは神納さんがプログラムされた夢なのでしょう。でも夢の中身は、プログラムに設定された範囲をもうとっくに越えているんです。そう考えると、全部辻褄が合うんですよ」
「でも……わたしはどうしたらいいんだろう?」
「さあ。私には分かりません。ただ、一つ言えることがあります」
「なに?」
「あなたは、神納しずかではなくて、希乃望です」
のぞみさんの頭にぽんと手のひらを乗せる。
「現実の世界では、神納さんはとっくに他界されているでしょう。あなたは神納さんの後悔をもとに、彼女の悔いが繰り返されないよう罪滅ぼしのために創られた存在。完全な神納さんのコピーではなく、絶望の中に一握りでも希望を見いだせるようにと神納さんが願いを込めて隠しておいた宝物。そして、神納さんがご自身の幸福の理想像として描いた絵姿。神納さんのちょっとした悪戯心だったのかもしれませんね」
もう一度土手に腰を下ろす。風は先ほどよりさらに強くなり、低木の梢と枝がざわめき始めた。強い風音も枝葉のさざめきも、私が初めて聞く音だ。
無意識に空を仰いだ。空にかかっていた雲が少しずつ吹き払われ、雲の裂け目から青空の破片が見え隠れしている。私が初めて見る空の色。その鮮やかな色に向かって右手を伸ばす。
「そうか。こういう空は初めて見ました。明るいですね」
「でも、太陽がないわよ?」
「私は、太陽が何か知りませんから」
そのあとしばらく、二人で並んでじっと川面を眺めていた。のぞみさんの表情はずっと冴えない。沈黙に耐えかねたように、小さな弱音が漏れた。
「ねえ」
「はい?」
「私たちは、いつまでこうしていられるんだろう」
「さあ」
ゆっくり立ち上がり、どんどん広がり始めた青空を見渡す。
「のぞみさんは、神納さんと同じようなニンゲンとしての感覚を与えられています。ニンゲンとして生まれ、成長し、恋をし、年を取り、死ぬ」
「うん」
「でも、私はそのあたりがきちんと設定されていなかった。私はあくまでも渡し守です。粛々と乗員を黄泉に導くための先導役さえこなせれば、とんでもない無知でも、顔が無くても、ろくな会話が出来なくても、何も支障はなかった。舟を操って川を渡すことさえできれば、あとはどうでも良かったんです」
足元の草を少しちぎって、風に流す。ふわりと風に乗った切れ端が、水面に落ちて小さな波紋を描いた。
「ま、すごーく適当にデザインされたんでしょう。人の形はしてますが、外身も中身ものっぺらぼうかへのへのもへじで差し支えなかったんですね」
のぞみさんが、くすくす笑った。ああ、やっと笑ったか。そう、君のせいなんかじゃないよ。
「だから、私が自分の顔や姿を知らないのは当然なんです。もともと、はっきり定義されていないんだから」
「ふうん?」
「おそらく、私の外観は見る人の想像によって自動的に補完されるのでしょう。候補になるのは祖父母や両親、親友など、その人にとても近しい人だと思います。ですから私には特定の型が与えられていなかった。いや、型があってはいけなかったんです。のぞみさんが与えてくれた名前と姿が、私にとって初めてのしっかりした器。これまで無個性の塑像に過ぎなかった私に、大川渡という確固とした存在が定義されたことになります」
胸ポケットに入れてあった携帯端末を取り出し、画面を指差した。
「それに、プログラミングによって具現している私は、ボスの命令には逆らえません。ですのでここが神納さんのプログラムの世界だとすれば、のぞみさんが私のボスということになりますね」
「そうなの?」
「ええ。でもプログラムはもう停止しています。私ものぞみさんも、すでにプログラムの制御を外れているんです。私たちは何の制約も受けずに、自分がなぜここにいるのかを考えることが出来ます。いつまで存在出来るかを考える前に、ね。それは苦痛じゃなくて希望でしょう。もし私がのぞみさんの立場ならば、そう考えます」
のぞみさんは、私をしばらくじっと見つめていた。それから、視線を対岸に移して花園を見回した。
「わたしたちは……。死んでいるの? 生きているの?」
ふっと笑ってから、笑みをそのまま問いに置き換えた。
「生死を考えることに意味がありますか?」
「うーん……」
「私たちは、ここにいる。希乃望と大川渡がここにいる。私たちは出会った。最初は渡し守と客として。それぞれの使命を終えた今は、一個と一個の存在同士として向き合っている。違いますか?」
視線を川向こうから引き戻したのぞみさんが振り向いて、再び私の顔を凝視した。問いは続く。
「わたしたちは、なに?」
「さあ。神納さんのプログラムの中身だとすれば『夢』ですね。誰かに見せるための。でも、ここにはもう誰もいない。夢を見せる相手が、ね」
「じゃあ、わたしたちは、なに?」
「私には分かりません」
「そか……」
会話がぷつりと途切れた。その後は二人して土手に足を投げ出し、ずっと川面を見つめていた。
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