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黒い羊

「なんか時々よ……生きてんの飽きちゃうんだよなぁ。」
という生きるの飽きてしまった無気力な男の言葉で、ジョージ秋山の『捨てがたき人々』は始まる。
こういう人物を(例え創作上の人物としても)存在さえも許せないくらい一切の容赦なく嫌う人はいる。おそらく、毎日を一生懸命生きている人であったり、身近にそういう人がいたりして、生きることを否定することは、そういう人達への冒涜的な考えだと聴こえてしまうのかもしれない。また、もしかしたら、同じようなやるせない毎日を過ごしていて、今もこの先もずっと飽き飽きした日々を過ごしている人が、同族嫌悪的な感情を抱くのかもしれない。

私は時たまたまらなく気分が落ち込むこともあるので、怠惰で堕落した考えを抱く人が嫌いではないし、どこか同情もできる。また、そういったナイーブな気持ちをもし打ち明けてくれたとしたら嬉しいことだし、そういった後ろ暗いところがあるところも人間っぽくて好きである。しかし、同時に、こういった心理が世の中では非難の対象となる現実も理解できる。なので、実際に対面して、こういった際どい話を聞いてしまったら、私は愛想笑いをしつつ、賛同も否定もしない曖昧な反応を示してしまうかもしれない。

また、別の例で、「自分の子供の為だったら自分のすべてを捧げて何だってできるはずだ」という主張は、一見すると献身的で美しいハートウォーミングな言葉に聴こえる。しかし、私はそんな美しい言葉を耳にすると、白けた気分になる。どこに白けるかというと、要は、家族や恋人や友人という自分以外の誰かのために頑張ることが美徳であり、自分の得や利益のためだけに行った自分本位な努力はそれに劣るという考えが好きでないため、大勢が認める正論であろうと、自分の人生観や個人的な価値観と照らし合わせて、なかなか首肯することができない。極論だが、他人の為にやることが偉くて、自分の為にやることが悪いというような風潮が世間一般に流布している気がして、それが「正しい」こととなっている世界には、私は居心地の悪さを感じる。

実は一人相撲しているだけで、自分勝手に作り上げた世論を押しつけがましいものだと思い込んでいるだけなのかもしれないが、たまに実生活でそんな風に誰もが無条件で支持すべき「正しさ」に直面することがある。そんな時に私は「生きてんの飽きちゃうんだよなぁ。」と独り言ちることもある。

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