端書

    不思議と記憶に残っている風景や情景というものがある。思い出す――というよりも、ふと、あちらから、こちらの方にやってくるような景色だ。その情景が頭に浮かぶときはいつも、うっとりするような、まるでわたしが今もまだそこに居るような気持がする。
 そういった風景は、鮮烈で、人生の中の特別な出来事――というわけでは必ずしもない。そういう記憶はこちらから、意味を辿って思い出せるだろう。その場面を言葉にして人に伝えることも出来る。でも、それは景色を思い出しているのではない。口に出すか出さないかの違いはあっても、それは景色を説明しているだけだ。もしかすると、過去の記憶ですらないのかもしれない。今の自分が、今の感情で、今の身体を離れることもなく、思い浮かべている。頭のなかには言葉があるだけ。それはどんなに上手くやりおおせても、現在の括りからは一歩も脱け出していないのかも知れない。
 わたしにもそういう場面や出来事があったけれど、それを説明するような愚は犯したくはない。景色のことに話を戻そう。何故こんなことを憶えているのだろうという景色。心に残っている意味をちょっと見出せない風景だ。それは本当に平凡だったりする。どこにでもあるようなもので、それに対して何か思ったり、深く感じたりしたものでもない。いつ歩いたかも知れない道の、広がるブロック塀と、伸びる白線を思い出したりする。いつかの部屋の、カーテンと敷布が、においとともに肌に感じられたりする。何かの拍子に一度だけ立ち寄った神社。どこにあるかも、今ではいつのことだったかも分からない。おそらくそのときには、少なくとも意識的には何かを感じたり、考えたりはしていない。前後の記憶はない。
 それは、いつかの階段の手すりだ。エレベーターが来るのを待っている情景。駅に、電車。バス停だったり、デパートの廊下だったり。皿が並んだ料理。液体が入ったグラス。雨が降っている。樹木。庭の木々。通学路。坂を上っている。海岸。玄関の横の白い花。日の沈んだ後の橋。
 デスクの前でコーヒーを飲み、遠くを見たときにふっと、こういった過去を思い出す。ベッドの横に親しい人が眠っていて、自分は身体を起こして手を後ろにやっている。何もしていない。気が付けば――わたしはその人を見ていたり、部屋に在るものを眺めていたりする。でもその間に、今ここに居るわたしに、何か別のものが重なって来ていた。こちらにやってくる景色だ。そのとき本当に、それを見ている。
 現在に過去が重なっているのだ。一瞬であったとしても、ぴったりと。それは何故だろうか。単なる想像の産物か。そうだとしたら、どうしてその景色が選ばれることになったのだろう。大体は、まったく脈絡が無いように思える。そこに薄く伸びている因果関係に、気が付いていないだけだろうか。ただの偶然である。本当に、偶然に、わたしが今までそこに居たシーンがランダムに、思い浮かぶときも無作為に、現れるものだろうか。人間というのはそこまで意味性のない、孤立した存在なのだろうか。
 もし、あなたがどこかに居て、例えば椅子に座ってボンヤリしたとき、今映る景色が後になって思い浮かぶかもしれない。いつか、どこかで、やってくる景色だ。そのときに、何が起きているのか。普段の生活の中で、あなたはずっと考え事をしていて、頭の中でも頭の外でも、識らず説明を続けている。多分、実際には何も見ていないし、何も感じていない。自分がこしらえた、周囲のものに対する説明文を読んでいるだけだ。言葉を見ているだけ。概念に当てはめているだけ。朝起きて、夜眠るまで。もう、遥か霞みゆく昔からのことで慣れているけれど、たまに虚しくなる。
 「わたしは今ここに居て、頭の中で自分の世界を説明し続けているけれど、疲れてきた」椅子に座ってデスクに置いてあるものを、ぼんやりと眺める。周りには音が聞こえる。匂いともいえないにおいがしていて、目を向けていないのに窓の外を見ている気がする。漂う空気に触れている。段々と、自分が細い煙になって、薄れてゆき、無くなる。
 多分一瞬のこと、そのとき初めて、わたしは、というより誰かは、言葉に依らない景色を見るのだ。初めてわたしは、かりそめの現実の括りから抜け出せる。そのときに、ぴったりと重なっているものがある。いつか、どこかで、この景色を思い出すことになるわたしだ。ずっと後になって、この景色を見ているわたし。
 ふと気が付くと、忘れてしまうけれど、そのときもう見ているのだ。いずれ今を思い返す、未来のわたしを。見ている景色は、それが、そのときになるとやってくるだけだ。忘れられた空白のなかで、現在と未来が重なっている。「それは本当だろうか」あなたが一笑に付さずに、こう聞いてくれるなら、わたしはこう答える。本当だ。それどころかこんなことは、ものの手始めに過ぎないのだと。

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