名無しの夏子さんの存在について

  名無しの夏子さんという存在について、話したいと思う。

  「名無しの夏子さん」「くねくねとした直線」「透明な木の板」「黄色い赤緑」

  こういったものを言い表せられるのが、言葉の強さであり、また脆さでもあるだろう。それがどれだけ矛盾を含み、実存を許されないものだとしても、書き記し、言い切ることが出来る。

  勿論それらの言葉に身は無く、実感は湧かないのだから、心無いものと言えるかもしれない。空虚な、無意味なもの。ためしに一日朝昼晩と十回ずつ、これらの言葉を唱えてみたら、昔の拷問よろしく、頭がおかしくなるのではないだろうか。一年も続ければ、人間を辞めることも出来るかもしれない。

  心まで行かない言葉、脳の上っ面だけを掻き撫でているような言葉だが、ではそれらは本当に空っぽなのだろうか、確かに無意味で、そこには何の存在も無いのだろうか。それについて考えてみたい。

「名無しの夏子さん」「くねくねとした直線」「透明な木の板」「黄色い赤緑」

  「名無しの夏子さん」

  名無しの夏子さんという言葉を聞いて、何か感ずるところはないだろうかと、注意深く探ってみる。文章であるなら、目で見て、心のなかで自分の読む声を聞いたときだが、何か微かな意味を感じないだろうか。それは、あるいは無意味なものに自身が堪えきれず、勝手な意味を見いだしているだけかもしれない。あるいは単語のそれぞれの意味、「名無しの」の持つイメージと謂いを受け取って、次に「夏子さん」を捉え、それらを適当に混じらせて処理しているのかもしれない。油と水のように、その二つは決して一つになっているわけではないのだが、振りに振り抜いた分離液状ドレッシングの瓶の中身を見るように、一応はひとつの意味を成立させていると錯覚しているのかもしれない。

  仮に「名無しの夏子さん」が単体で、純粋に意味を持っていると定め、それがどこから来ているのかと考えれば、とどのつまり、言葉の意味はどこから来ているのだろうか、というところに足を踏み入れてしまう。分け行って、分け行って、いくらでも細かく分析出来るのではないか。

  意味が在るのか無いのか分からない「名無しの夏子さん」では前提が不確かなので、ここは、京橋の夏子さんで考えてみたい。おそらく、この言葉に意味は無いと言う人は居ないだろう。それは確実に何らかの存在を示している。それなら、その意味はどこから来ているのだろうか。京橋の夏子さんが示す存在とは。京橋に住んでいる夏子さん、であるとするならば、それは言葉の意味というよりは単なる言い換えに過ぎない。この言葉を聞いたときの内容、感ずる意味はどこから来るのか。京橋とは何だろう。実際の地名だとしても、それは東京他、日本に複数ある。単に橋の名前だとしたら、それは何なのか。京の橋。京とは何か。そもそも橋とは何なのだろうか。

  夏子さんの意味を考えるとどうだろうか。固有名詞として考えれば、言い換えはきかないだろう。あれ、と指をさして答える。あるいはプロフィールを書いて説明する。でも、それは「夏子さん」という言葉自体の持つ意味にはならない。おそらくそこには多くの、明確なものから、既に見えない、たなびく煙の微粒子のようなものまで、数えきれない意味が含まれている。夏に生まれた子なのか、さん付けをされている、子どもの子、夏は、風薫る初夏、猛暑、かげろう、月、蝶、過ぎ去っていこうとしている夏、そういった女性、字は違うが昔会ったことのある奈津子さん、かつて居た、今も居る、百人の夏子さん、千人の夏子さん、ナとツとコ、なつこさんという音の響き。

  構成する要素を分けて、それこそ物体の原子、素粒子というふうに細部に分解して述べたとしても、元となった京橋の夏子さんの意味を、説明出来ているようで、出来ていないのではないだろうか。それでも、そこには意味があるし、何らかの存在がある。言葉の持つ意味というのは、質は、究極的には言い表せないものだ、としてしまえば簡単だが、どういったことなのだろう。

  おそらく言葉の意味というのは、もろもろ全て、もしそれが名付けから始まっているのなら、モノにカタチを与え、色々な人が持ち運んだり、浮かべたり出来るようにする。そのカタチ、道具とも言えるかもしれないが、その道具を使っているときの手触り、感覚、気持ち、思考、あらゆる経験が個人から始まり、最初は数えられるぐらいで、はっきりとしていたその要素が、個人のなかでも、またその手を離れて社会のものになっていくなかでも、夥しく、煮詰められ煮詰められ、何度も蒸留され続けたのち、個別の経験がもう見えないほど跡形もなく薄まり、意味を無くした果てに、「その言葉の持つ意味」が生まれるのではないだろうか。

  話を「名無しの夏子さん」に戻したい。

  「くねくねとした直線」「透明な木の板」「黄色い赤緑」

  「名無しの夏子さん」こういった言葉は、それぞれの要素には意味がある。くねくねとした、透明な、黄色い、名無しの。直線、木の板、赤、緑、夏子さん。しかし、それらをくっつけた、「くねくねとした直線」「透明な木の板」「黄色い赤緑」「名無しの夏子さん」は、先の例で言えば、世の中に道具として使われていない。現実的には使い物にならないだろう。個人としても、集団としても、この道具を使った経験が足らず、言葉の意味として昇華されていない。よって、これらの言葉に意味は無い。それらが示す存在は無い。

  ――と、ここで話を終わらせられれば良いのだが、ものごとには違う見方がある。言葉という道具の使い方だが、何らかの用途があって、のちに道具を作るというのが、今までの内容だった。例えば作物を刈り取りたいという用途が先にあって、鎌が出来る。何らかの概念があり、それを示す言葉を作るということだ。

  しかし、道具というのは、ある決まった用途に向かって使うということもあるが、先に道具があって、それにぴったりと合う使い道を見いだし、そのことに使用されるということもあるはずだ。作物など作らない、畑仕事などしたこともない者の前に鎌が現れたら、その者はそれを、人間の首を切断することに使うかもしれない。

  あるモノを示すためにカタチをつくる。それとは逆に、カタチからあるモノが生じる。これは、人形には霊が宿るというようなことかもしれないが、別に特別なことではなく、世の中にありふれている。絵というものは全体そうだろう。それは形を書いているが、現れているのはカタチではなく、なんらかの存在なはずだ。大抵の場合、それは目に見えず、だからこそ人を惹き付け、心のなかに入り込む。単なる記号でさえ、意味を持つ。3つの点を打っただけなのに、そこに人の顔が見える。星のような5本の線に、肉体が思い浮かぶ。ただの十字の線に、十字架と、その背後に居る神を見いだす。

  「名無しの夏子さん」「くねくねとした直線」「透明な木の板」「黄色い赤緑」

  名無しの夏子さん、この言葉はすでに形を持っている。それならば、どういった意味、存在が降りてくるのだろう。そのカタチに合った、相応しいモノが宿るはずだ。もし、これが「京橋の夏子さん」であったなら。今ここに居る、わたしたちの生きている現実に、ぴったりと収まる。曲がりなりにもそれを説明し、慣れ親しんだこの世のものごとで、言い換えることが出来る。安心できる。しかし、名無しの夏子さんは――。

  論は以上で終わりです。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。色々書き記しましたが、多かれ少なかれ、あなたの心に、名無しの夏子さんが刻まれたことを願っています。これから彼女はずっと、あなたの中で仄とした刺戟を与え続け、多少なりともすわりの悪い気持にさせるかもしれません。もし、あなたが現実世界に退屈し、少なからず何かを壊したいと思っているなら、彼女はとても理想的な友人となってくれるはずです。

  ただ、もしあなたがこの世のことがら全て、あるいはあの世でも、過去でも未来でも、内側の世界のものに囲まれて幸せなら、彼女のことは一刻も早く忘れてください。名無しの夏子さんのことは絶対に思い出さないよう。そうでないと、彼女はあなたの心のなかに巣食って、明晰で建設的なあなたの人生に、致命的なバグをもたらします。経済、感情、知識、理念――もし、あなたという存在が、今在るこの世界の基盤の上で、しっかりと立っていると思うのなら、名無しの夏子さんのことは忘れるように。そうしないと彼女はいずれ、あなたの立っているその薄っぺらな地面を、跡形もなく消し去ってしまいますよ。

  どうか、名無しの夏子さんのことは考えないように。これからも決して、思い出さないようにしてくださいね。

  くねくねとした直線、透明な木の板、黄色い赤緑。

名無しの夏子

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