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書くことを再開したい

ここは自分の中から出されたがっているものを散発的にメモをする場所にしていく。

ここ最近、twitterであれnoteであれ、そこに自分の感じている何かを文章として落とし込むなら、美しい文章、オチのついている文章、学びのある文章、わかりやすい文章、何かメッセージが込められている文章、読み応えのある文章を書か「ねばならない」ような雰囲気を感じて、自分の中で十分に言いたいことや世に発信す「べき」メッセージがまとまらないと、自分の中にあるものを外に出してはいけない、そんな気がしていた。

多分、それは届くか届かないかわからないけれど、読んでくれる誰かからの筆者への評価が良いものであってほしい、書いたものを読むという行為は人の時間を奪う行為で、その搾取する時間がせめて有意義であってほしいと願う自分の他人軸で生きる面が存分に発揮されて感じていた、自分をとじこめる「檻」のようなもの。

そして私は何をするにも自分にとって丁寧なやり方でやらないと気が済まない性格で、「きちんと」書くことにはけっこう時間がかかる。

自分からも他人からも時間を奪う行為だから、時間が何よりも貴重なリソースになった今の生活の中で、「書く」「アウトプットする」は仕事で必要なもの以外優先順位から外れていくことになった。

でも自分の中にうずまくさまざまなものがあって、浮かんでは消え、浮かんでは消え、あー、これは文字にしたいなぁと感じる瞬間があっても、その機会を逃すともうあとからわざわざ書く行為には至らない、ということを繰り返すうちに、私の言葉は失われていって、自分の思考にフックをかける、楔をうつ、みたいなことがこぼれ落ちていった。書くタイミングにも「旬」みたいなのがあるんだとしたら、私は「旬」を逃し続けている。

結果、インプットばかりの頭でっかちな、そして自分の中でなにかが飽和している状態ができあがった。
自分の中に感じてる不健全さを打破するためにやっぱり、別に誰に届けるでもなくていいから自分のために自分を出していこうと思った。

徐々に出していくことを自分に許していきたい。


さて本題・・・の前にもう少しだらだらと

書き始めたら、あー、もうこんな時間じゃん、と思っている自分がいるし、頭には終わっていない仕事のあれこれが思い浮かびはじめているけれど、これは歯磨きをしたり風呂に入るような自分のための時間だと思って続けてみる。

なんで押し込めていた自分の「書く」「出す」が刺激されたのかといえば、最近仕事を通じて人生で初めて「クリエイター」や「アーティスト」と呼ばれる、自分の世界を外に表現する人々の存在に気付いたからだ。もちろん職種として知ってはいたし、私たちは生活の中で音楽しかり、本しかり、何らかの製品しかり、何かしら誰かが生み出してくれたものを摂取し享受して生きているわけで、クリエイティブなものっていうのは身の回りに溢れているので何をいまさらと思うのだけど、何に初めて気付いたかといえば、その「ゼロから生み出す」発想、行為、想い、試行錯誤、責任についてだ。

私はこれまで「成果物」にしか目を向けてこなくて、それが機能的か非機能的か、美しいか美しくないか、気にいるか気に入らないか、と傲慢にジャッジする側甘んじていて、その背後にある、自己の内面を外界に表現していくその営みの尊さ、想い、それに伴って引き受けなければならない責任感や葛藤まで全然受け取ってこなかったこと、想像すら及んでなかったことに気づいてしまったのだ。

そこに気づいて世界を見渡すと、なんと創造性と勇気と責任感と想いに溢れていることか。
偉大なクリエイターの作品に触れたときに感じる、もう圧倒的な「大いなるもの」感たるやすごい。その人の、いのちの発露なのだな、と感じられ、恐れ慄く。言葉が失われる。
この感覚のなんと尊いものか。

そして、そこに触れた時に、照らし返されるのが、「では、お前は?」「これまでの仕事の中にも本来はタイプは違えど創作的なものがあったはずだけど?なにしてたの?」「背後にあるものに気づいたいまお前はどうするの?」という問いだ。


その解として「とりあえず出す」「出す責任を引き受ける」という、対話の場でよく言われるフレーズが浮かんできた。

そして、「出したものの責任も引き受ける」というフレーズも。

という状態の只中にいるわたしが、自分のなかにめぐりをつくり、表現していく筋トレとして、改めてたどたどしい応答として、外に出たがっているものを記していく。



ようやく本題に、いくのか??

noteを久しぶりに開いたのは、実は書きたいと思った出会いがあって、それについて書きたかったからだ。でもなんで改めてnoteに書き始めようと思ったのか前置きを記しとこうと思ったらそっちが長くなってきてしまった。
やっぱ出されたがってることこんなにあるんだなぁ、と長々と繰り出され続ける「なぜ書くのか」の理由づけを眺める自分も、全然本題いかんやん、とつっこんでる自分もいる。書くことに飽きてきてるし、何書きたかったか忘れてきてもいる。たぶん、書いてる中でもともとの題材の旬を逃し、実は出たがっていた

「わたし、書くことにするの!!それはね、これこれこういう理由なの!」

という子供じみた主張の方の筆が乗ってきてしまった、ということじゃないかと思う。

どうやら、聞いて聞いて!と言ってるようだしもう、なぜ書くかの方を本題にしようか。

そして出てきた「聞いて聞いて!」に従っていたら元々思っていた出したかったことが手からこぼれ落ちて、形がわからなくなってきてしまった。

五行の中で私は水の陽の性質を持っていて、本当に最近自分のその性質を感じる。


流れるままに。気の赴くままに。

ここでも発揮されてしまったようだ。

でも断片だけたぐり寄せておこうと思う。

本題だったはずなのに本題に至らなかったもの

昨日『音楽と生命』という福岡伸一さんと坂本龍一さんの対談本を手に取った。

まだ全部は読んでなくて、途中なのだけど、異なる領域に魂を捧げた二人が、共有している世界観について対話を進めていくそんな本(だと思う)で、冒頭だけでもかなり引き込まれている。

こういう冒頭だけで引きつけられる本は、自分にとって良き出会いとなる本で、きっと折に触れて読み返すんじゃないかな、と予感している。

私は福岡伸一さんの世界の捉え方や、表現のされ方がとても好きで、影響を受けている。坂本龍一さんは、特に彼の音楽を熱心に聞いてきたわけではなく、むしろ最近の神宮外苑の再開発に対する発信とか、闘病されている中で感じた死生観などを書籍にされたとか、そちらに関心を持っていて、実は当初そっちの本を買うつもりで本屋にいったのだけど、その本と一緒に平積みされてたこちらの本のほうが自分に刺さってしまった。

ちなみに買われなかった本はこちら。いつかまた読む機会がめぐってきたら読みたい。


この福岡伸一さんと坂本龍一さんの本を読んでる最中にどうしてももう一度読み返したくなった、もう1つの音楽にまつわる「対談本」がある。小澤征爾さんと村上春樹さんの対談本だ。

この本の冒頭、村上春樹さんのまえがきの文章が好きで、そこだけでも何度か読み返しているものだけど、最近は本棚から出されることもなくしまい込まれていた。

久しぶりに再会した文章の中にこんな一節があった。

ものを創造する人間は基本的にエゴイスティックにならざるを得ない

ゼロの地平から何かを立ち上げるには、個人的な深い集中が必要となるし、個人的な集中は多くの場合、他人との協調とは無縁の、あえていうならデモーニッシュな場所で進行させられる


ゼロの地平から何かを立ち上げるーー

今読むと改めて響く。私の中から立ち上がるものは何だろう。

この一節に出会い直したくて、私は福岡伸一さんと坂本龍一さんの本を手に取ったのかもしれない。


そして唐突に終わる

まじで何を書こうとしてたのかわからなくなってしまったので、むりやり結論めいたものを作らずにここで終わろうと思う。

本を読み進めたら思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。でもきっと何か出てくるんじゃないか。


様々なクリエイターの想いに触れ、表現力の高さに感嘆し、刺激を得て、尊敬の念を抱き、自分の凡庸さにあ然としながら、今日は宮崎駿の最新作を観に行ってくる。

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