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『コン・ティキ号探検記』図書館の本棚の間にも、旅立つための港はある。

「ティキは」と老人は静かに言った。
「彼は、神にして酋長でした。わたしの祖先たちを、いまわたしたちが住んでいるこの島々に連れてきたのはティキでした。その前、わたしたちは海の向こうの大きな国に住んでいたのです」

閉じ込められている事を、金魚鉢の金魚は知らない。池に放たれてようやく、世界の広さを知るのだ。

どうしてそんな事をしようと思いついたのか、未だに理由は分からない。
けれど今から四半世紀以上前、当時中学生だった私は<00総記>の棚から順番に、図書館のすべての本を読もうと決めたのだった。

時間はたっぷりあった。
小学校高学年から始まったいじめは中学に進学しても変わらず、休み時間にするべき事が読書の他に、何も無かった。
帰宅後も塾に行くわけでもなく、親と会話が弾むわけでもなく、一緒にテレビを見るよりは、自分の部屋にこもって活字に溺れる方が楽しかった。
むしろ本の中以外に行くべき場所が無かった、とも言えるのかもしれない。


友達と遊ぶかわりに、本と遊んだ。
誰かと会話をする代わりに、物語の中の人と会話をした。
リアルの身体がおかれている、「学生服を着た子供が教室に詰め込まれ、同じような日々が繰り返される世界」とは全く別の世界を本棚の向こう側に見つけた。そしてその場所こそが当時の私にとって生きる場所だった。


当時読了した本のほとんどは、全く記憶に残っていない。
けれどほんの数冊、40年近い歳月を経ても記憶に残っている本がある。

表紙の色合い、手触り、読んでいた時に嗅いだ匂い。教室のざわめき。
本の内容とは関係のない部分で記憶に残っているものもあれば、短い一節や物語のほんの一場面が、焼き付いたように忘れられないものもある。

きっとそれらの忘れられない本たちは、私の中に「何か」を残したのだろう。
それが「何」なのか、当時の私には分からなかった。けれど人生の曲がり角に来るたびに、意識の底に蓄えられた言葉たちが、私の背中を支えてくれた。

思い出せた分から、記事にしてみたいと思う。
あの頃の私を、あらためて振り返りながら。

命を懸けて遊ぶことのできる大人たちが、この世界のどこかにいるという、それも一つの救い。

まずは『コン・ティキ号航海記』

総記の棚からほど近い場所に並んだ、冒険記や航海記たちの中の一冊だ。

面白そうなタイトルの本だけを選んでいたら決して近づかなかっただろう「地誌・紀行」のジャンルに、中学生だった私はすっかり魅了された。

家と学校を往復する毎日。同じ制服を着て、窮屈な教室に押し込められた子供たち。成績順に上位の高校に進学し、成績順に有名な大学へ行き、就職するという将来へ向けて敷かれたレール。
そのレール以外の場所にも生きている人がいるのだ、とこのジャンルと出会って私は知った。


実は当時このジャンルにはまりすぎて、航海士に憧れたりもしたのだった。「女子にそんな職業は無理よ。いじめられて海に放り込まれた子もいるのよ」という母の言葉と、基準を満たせない近視のせいで航海士学校への進学はあっさり選択肢から消えた。けれど、学校に置かれてあった入学案内をこっそり持って帰って眺めるほどには、本気で憧れたのだった。

さて話を戻そう。

コン・ティキ号航海記の魅力は、ユーモアあふれる海上生活の描写と、どこか子供のような無邪気さを持った、大人たちの姿だ。

巨大な帆船でさえ、嵐にまかれ沈没することのあるような太平洋の広大な海原を、簡素なバルサ材の筏で流される。板子一枚下は地獄という環境で、甲板に打ち上げられた魚をソテーし、ゲーテを読む。惚れるだろ、これ。

極めつけは、「インディアンの筏で、太平洋を横断するんだ」っていう話を聞かされて「それ面白そうだね、俺も混ぜてよ」って言いだす人。え、仕事はとか家族とかどうすんの? で、あっさりそれを受け入れるヘルマン。やだ格好良い。 

彼は、一、二瞬間、一つの考えを繰り返し考えるようにして立っていた。
それから突然力をこめて言った。
くそっ。いっしょに行きたいなあ。わたしは技術的な測定とテストを引き受ける事ができます…(略)」
正直な顔つきからわかる以上には、わたしはその男について何も知らなかった。「承知しました」とわたしは言った。「いっしょに行きましょう」

常識的な人たちから見れば、これはもう無謀。
いくら自分の学説を証明するためと言え、命を懸けるとかやりすぎじゃないのか。それでもヘイエルダールは漕ぎ出したのだ。先史時代の船が渡っていけたのだから、寸分たがわぬ船を作れば渡れるはずだ、との信念をもとに。

命を懸けるほどの夢に出会えることは、どれほどの確率なのだろう。
誰かの夢に自分の命を預けても良いと思えるのは、どれほどの奇跡なのだろう。

その奇跡を生きる事ができた人がいたというだけで、世界が少しだけ救いのある場所に思えてくる。


世界は広く、知らない事で満ちている。だから人は、本を読むのだ。

サメたちと戯れ、シイラを捕まえ、トビウオを拾い集め、海の底から上がってくる不思議な生き物と出会う。夜には空の星を目印に方角を定め、昼には潜水かごを作り上げて、海中の景色を楽しむ。

想像した事もないような経験が、本の中に存在していた。
想像もできないような美しい世界が、昔の人が綴った言葉の中に在った。
想像もできないような行動をする人たちが、かつてどこかに生きていた。

正直に言えば、この本を読んだ当時は、自分の中に感動が生まれた事に私は気付いていなかったように思う。
だからこの記事に書いてきたあれこれも、当時の私の胸の内に生まれた揺らぎを思い出しながら、どうにか言葉にしている。

小さな世界を生きている子供には、自分が閉じ込められている事も、その世界に息苦しさを感じている事もわからない。
その何も知らない子供だった私の世界の枠を、コン・ティキ号の物語は静かにひとつ、壊してくれた。その衝撃だけが、いつまでも私の中には残っていた。

冒険譚の並ぶ棚を通り過ぎ、沼に落ちるようにはまった英米文学の棚へたどり着いた後も、ふとした折に、帆を張った筏のイラストを思い出し、大海原へと思いをはせるくらいに。

夜のとばりが下りて、暗い熱帯の空に星が瞬くと、燐光がまわりに閃いて星と姸を競った。そして一つ一つ独立した光るプランクトンが火のついた丸い石炭にあまりよく似ていたので、その光る丸い球が筏のとものわれわれの足の周りに打ち上げられると、思わず露出した足を引っ込めてしまうのだった。
ときどき二つの丸い輝く目が突然筏のすぐ横の海の中から上がってきて、催眠術にでもかかったようにまばたきもせずに我々をにらみつけたので、ぞっとする事もあった。──海の老人自身かもしれなかった。

自分が見ている「現実」とは全く違う「現実」を生きている人が、今この瞬間も世界のどこかにいること。
見慣れた四角い建物が並ぶこの地面の果てに、果てのない大海や満点の星空、ぞっとするような魅惑的な夜の海があるという事。

それを救いと言わずに、何といえば良いのだろう。

世界は広く、想像もつかないもので満ちている。今、足元にある現実が苦しくてどこにも逃げ場が無いように思えても、それでも、世界はもっともっと広いのだ。自分の思考では想像もできないような世界が、確かにあるのだ。

+:-:+:-

結局、中学を卒業するまでの間に、すべての本を読むという目標は達成できなかった。英米文学の棚でひっかった私は、その後中学校の図書館の蔵書では満足できず、市立の図書館へと場所を変えてしまったから。

けれどあの頃、沢山の世界と図書館で出会えなければ、私はあの中学時代を生き抜く事は出来なかったと思う。少なくとも私は、本棚の奥に広がる広い世界に救われた。心の居場所を、行きたいと望む場所を、与えてもらった。


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