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セカンドルネッサンス(アニマトリックス)に見るロゴスとレンマ(レンマ学②)

レンマ的知性は、ロゴス的知性の真の外部にある実在に触れている。その様な新しい概念が、数学の領域で今日つぎつぎに発見されている。そこでレンマの目指すところはこうなる。今までに得たレンマ的知性の本質をめぐる最高の哲学的表現は大乗仏教の縁起の論理によってもたらされた。だが残念な事にそれは長い事発達を止めていた。それに代わって人類の知性は無意識のうちに、現代化学の領域でレンマ的知性の蘇りを図っている。

レンマ学 中沢新一 

ロゴス的知性に葬られたレンマ的知性

1.ロゴスを闇と仮定し、レンマを光りと仮定する


ロゴスを闇と完全にしてしまう事は大きな危険を伴うのもわかる。でも、ここではロゴスの働きをいったん闇と仮定して、話を進めて見たいと思う。

ロゴスは、光であるレンマの力を封じ込めている。

これって一体どういった意味なのか?と言えば、ロゴスは、レンマの持つ力を恐れていると言えるのではないかと思う。

ロゴスは、レンマを押さえ込み、そしてレンマ一強の世界を構築しようとしている。

ロゴスは作られたものとすれば、レンマはそこに流れるもの。

だとすると、ロゴスは人工的であり、レンマは自然的であるともいえる。

人間が自然の力を恐れている。

だから、自然のもつ力がいかなるものかを知りつつ、私たちはそれを抑えるためにロゴスを発達させたともいえるのかもしれない。

この話って意外に面白くて、あのアニマトリックスのセカンドルネッサンスに通じるものがあるともいえる。

2.セカンドルネッサンスとの相関性

このセカンドルネッサンスは、人間とロボットの関係が描かれている。これはまさにロゴスとレンマの関係そのものの様にも見て取れる。

この物語でロボットは、その存在を認められながらも、彼らは事実上人間たちの奴隷と言うことになる。

ロゴスも、ある意味レンマの存在を知りながらも、そのレンマ的知性をロゴス的知性の下にひいている。まさにロゴスによるレンマの奴隷化だ。

レンマは、ロボットと同じくロゴスに都合のいいように利用させるだけで、レンマの存在価値などない。これは全くこのストーリーに出てくるロボットと同じだ。

ロボットは人間との共生を望んだが、それもうまくいかずに、ストーリーのなかでこの両者は激しく対立する事になる。

色々名意味で理不尽さを感じていたロボットは01を建国するけれど、そこで人間を捕まえて実験し、そこからエネルギーを生み出す事に成功するって話だったと思うけれど、このストーリーの中で人間はロボットのエネルギー源である太陽を奪うんだよね。

だから、ロボットは01を建国し、自らを生かすためのエネルギーを確保しなければならなかった。

これってまさに私からするとロゴスとレンマの関係そっくりに見えて仕方がない。

ロゴスは、これに近い形でレンマの力を封じ込めている。だから、レンマは意識の外に出る事が出来ない。でも、レンマはロゴスの知らないところで活動し、絶えず私たちの意識に影響を与えている。

レンマというのは、ロゴスが思うほど馬鹿じゃない。地中深く押し込まれたとしても、その地中でエネルギーを作り、そしてそのエネルギーで地上にいるロゴスに絶えず何らかの働きかけけをしている。

そう考えると、01にいるロボット、つまり、押さえ込まれたレンマ的知性も、人間からエンルギーを抽出する事だけではなく、未だレンマ的知性も、01のロボットたちの中にも、どうにかして人間と良質な関係を築こうとしている努力みたいなものが、そこには見える気がする。

ロゴスは、ロボットから太陽を奪った人間を象徴し、
レンマは人間によって、その存在意義を奪われたレンマ的知性を象徴する。


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