岡潔、小林秀雄「人間の建設」
わたしたちは、未だ人間にもなっていない。天才数学者の岡潔の言葉です。
彼の言葉を聞いていると、今ここに生きている私たちは未だ何物でもないという事になります。
わたしたちは未だ何者でもない。がしかし、その私たちは自分が何者であるかを皆それぞれに誇張し、そして謳っている・・・と。
わたしたちは個性をそれぞれに持っているとそう思って生きています。でも、その個性すら今の私たちはないとそう彼の言葉は続きます。
個性、それは今ある自分(私)をどんどんと消していき、完全なる無私の状態に至り、廻心のポイントで自らを切り返した時に作られていくものだという事でした。(廻心=日常的な心のありようを大きく翻し宗教的な真実へと方向を変えること。)
岡潔と小林秀雄の言い方だととても難しい話にはなりますが、個性とは私が私がと自らを主張し、その私を白いキャンバスにたたきつけていく行為ではないという事でした。
個性とは、私を主張することではなく、真なる個性とは、そのものがそのものであることだといいます。私という主体が何かをではなく、その何かが私をするという意味になるそうです。
私が、私の個性そして人格を自らが主張し、作っていくのではなく、彼らの言い分からすると、彼らにはこの対象を作っていくという私という主体がまるで存在していないように感じます。
個性、それは廻心したポイントで自ら作るものではなく、それらはそれら自身が作っていくものとなる。
つまり、自らの個性もそして人格も又、この二人の話を聞いていると、勝手に作られていくものだという事になるようです。
その自らの手を介さずとも、勝手に作られていくその私を、今現代に生きるわたしたちは待つことが出来ない。
私というものが自然によってはぐくまれ、出来上がってくるのを待つことが出来ない。じっと待っている、向こうから私というものが立ち上がってくるのを待つことが出来ない。
だから、わたしたちは自分で自分を作り上げるしかないという事です。
岡潔もそして小林秀雄も、ただ待てといいます。対象が、自らを明らかにしてくるまで、その対象が自らを明かすまで、とにかくじっと辛抱強く待てといいます。
何か物事を知るとはそういう事だそうです。
彼らが自らを明かすまで待つ。何年でもまつ。そしてその対象に寄り添い生きる。そうすればおのずと、そのものは自らをそちら側からあらわしてくれるのだと。
この二人の話は本当に示唆に富んでいて面白いです。皆さんもぜひ読んでみてください。