中沢新一:レンマ学を読む①ロゴスとレンマ
今日から、少しずつ中沢新一のレンマ学の要約noteを書いていこうと思う。
私にとって中沢新一のレンマ学はとても重要なもので、それを自分の頭を整理するのと同時に、ここに1つのnoteとして整理し、まとめていけたらと思う。もしよかったら、レンマ学を読む上での参考にしてもらえたらと思う。
本の中では、ここぞとおもうところを書き出し、それを引用しながら、まとめていくことにする。
1. ロゴスとレンマの対比
1:ロゴスは分類好き
簡単に言うと、ロゴスとは横の並びを表し、それは2次元的ともいえる。レンマは、このロゴスに比べると、縦の運動、つまり3次元的であるともいえる。
これはあくまで私の解釈の域を出ないが、ロゴスというのは、運動していると言うよりかは、ただ横に並んでいると言ったイメージ。そして、レンマとは、すべてが互いに動き相即相入しあいながら、運動している感じとなる。
これをもっと簡単に表すのであれば、ロゴスとは生命観がないものともいえるのかもしれない。どこかとても冷たい感じ。
でもレンマは、豊かな生命観を持っていて、皆が1つに連結してつながっている。
ロゴスには個体性がある。そしてその個体同士は、レンマの様に互いに溶け合い1つになる事はない。個体としての形はそのままにほかのものとつながっている。(つながっていえると言うと少し誤解があるので、あえてここではくっついているという表現を取る。)
つまり、ロゴスってのは非常に強い自己アイデンティティを持っていて、これが私!と主張する。だから、そのロゴスと同じような性質を持つものとしか仲良くしない。
ロゴスは、結構縄張り意識が強かったりするのかもしれない。こういった意味で、ロゴスとは、自分と同じようなものとしか基本結びつかない。
この本の中にも書いてあるが、ロゴスは同一律、矛盾律、排中律に従う。
私たち人間もまさにそうですが、同じものはグループに引き入れる。でも、違うものは、自分とは違うということにして、別のカテゴリーに分類する。ロゴスというのは、こうした事から考えていくと、いつも物事をこうだ!と決めつけたがる性質がある。つまり、分類好きと言うことだ。
分類して、それぞれをカテゴライズする。何でも、分類して、分離させて物事を考えようとする。これがロゴス。
2:レンマは物事を分けない
レンマは非線形性や非因果律性を特徴としていると中沢新一の引用にもあるように、レンマは、これと言った個体性を持たない。つまり、自分をこう!と断定しない。
ロゴスが、これが私だ!と自分を固定化してしまうのに対して、レンマは、私なるものを固定化したりはしない。どれも私であり、そしてそのどれもが私ではないという華厳様のスタイルをとる。
レンマはロゴスのように、自己主張がない。もっと言えば、私なんて持っていない。そして、その私はすべてであると思っている。だから、どんな形にでもあるし、何とでも溶け合い1つになる。
常にレンマは他と相即相入しあいながら、生きている。レンマとは、その都度その都度の様々な要素の組み合わせでそこに私なるものが射影されている様なもの。
だから、ロゴスは手でつかめても、レンマは手ではつかめない。レンマが実体性を持つなら、レンマには、その実体性がない。ロゴスは物事の積み重ね。レンマは組み合わせと言うことにもなる。
とにかく、レンマとはすべてであり、そしてすべてではないというこの矛盾性を持っているので、ロゴスのように物事を分けては考えない。
これが私なら、あれも私だし、あれが私なら、これも私と言った感じだ。
小さい頃は、私たちもこうしたレンマ的知性を持って世界を捉えていた。すべてが自分であり、自分がそのすべてだと思っていた。だから、自分が大切にしているぬいぐるみを兄弟に潰されたり、嫌がらせをされると心が痛んだものだ。
ここには、明らかにレンマ的知性のあとがある。ぬいぐるみの傷みは、私の痛みだったのだ。
レンマとは、このように物事を分けない。分類しない。これとあれを分けない世界観の事を表しているのだと思う。
2. ロゴスの線形性とレンマの非線形性
1:時間軸に従って伸びていく「線形性」をその本質とするロゴス
ロゴスというのは、時間制が入り込んだ世界といえる。時間が空間を引き裂き、二次元を作った感じと言ったらわかりやすいだろうか?線形性とは、レンマを引き裂き生まれてきた。
レンマに時間制が介入することで、ロゴスという時間軸に従って伸びていく線形性のロゴスが生まれたと言うことになる。
ロゴスというのは、時間制を伴うので、とにかく横に横に伸びていく。時間には、過去、現在、未来が存在する。何もかもがこのロゴスの線形性で表さ私たちは完全に分類され、区別され、色々と分けられ、分断される世界に生きる事になる。
何でもかんでも区切って物事を理解しようとする。それがレンマの動き。時間とは、究極、元あった世界を引き裂きためのものであり、全く新しい世界の創造ともいえるのかもしれない。ロゴス的世界は、新しく創造された新世界ともいえるのかもしれない。
2:レンマは非線形性や非因果律性を特徴とする
レンマは、ロゴスに引き裂かれる前に存在した世界。ここには、なんの時間制も入り込んでいない。だから、時間さえも相即相入しあっている。だから、過去とか現在とか未来という概念さえない。
時間という概念は、ホモサピエンスが誕生したときにロゴスと共に誕したらしい。レンマというのは、ロゴスのようには並ばない。横一列では並ばない。
レンマは、縦に動く。並ぶのではなく常に運動している。これがレンマ。運動している訳だから、どこかに何かが固定化される事はなく、常に動いている。常に動き、その動きによって、そこに相互映発して物事が映し出されると言った感じだ。
なので、さっき言った様に実体はない。空有一体である。ロゴスは並びで、レンマは言ってみれば、回転と言った方がわかりやすいかもしれない。レンマは回転しながらそこに実体となるものを映し出すが、それは回転しなければ、そこに実体が投射される事はないと言うことになる。
レンマが連続的だとすると、ロゴスは断続的、非連続的といえるのかもしれない。
レンマは連続的につながって、1つの形をそこに映し出す。だから、連続して運動を起こしていないといけない。でも、ロゴスは断続的、非連続的だから、運動を必要とはせず、ただ自分の周りにほかのものを張りぼての様にくっつけていくだけ。
そこに実体があるように見せるという意味においては、ロゴスもレンマもその目的とするところは同じだが、その方法が違う。
レンマは連続する運動によって。そしてロゴスは、張りぼての様に本来実体のないものに、あるように見えるように多くのものを貼り付けて実体があるかのように見せている。これが、レンマとロゴスの違い。
2:ロゴスの因果性とレンマの非因果性の違い
ロゴスというのは、張りぼての様に自らを作っていく。だからそこには因果性があるといえる。つまり、原因と結果の法則がそこには機能していると言うことになる。
レンマは、それに比べるとロゴスの様に実体のないものに、張りぼてを形成し積み重ねていくというプロセスはとらないため、ここに因果性は機能しない。だから、レンマは非因果性といえるのだ。
レンマは運動している。ロゴスの様に並んでいるのではない。レンマとは命を持った1つの生命体。レンマは常に運動を繰り返す。なのでここに因果性は機能しない。常に運動し、動いているので、誰もその動きを予測する事は出来ないと言うことになる。よってレンマは非因果性という特徴を持つと言うことになる。
今日のレンマ学noteのまとめはここまでとする。