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 世界には1枚の鏡がある、と遥奈は思っていた。

 いつ見ても水平で、鋭利な光りが跳ね返ってくるだけの鏡。いや、ただの鏡ではない。マジックミラーなのだ。きっとあちらからこちらは、透けて全て見通せるに違いないのだ。

 日常生活で壁――あるいは鏡かもしれないが――に出会った時には、必ず部活に出るようにしていた。今もこうして、もう泳ぐには冷たくなり過ぎたプールに身を浸している。

 例えタイムが伸びなくても、どんなに水が冷たくても練習が厳しくても、彼女は秋冬のプールが好きだった。一応ある温水機能を実感することは少なく、屋内プールである為に夏でさえ冷たく感じる水温。まして冬は体の芯まで冷凍されてしまいそうだが、遥奈にはその分水が澄んでいるように思える。

 確かに、授業が頻繁に行われ、沢山の生徒達が入れ替わりにプールへ入る夏に比べ、部員しか使わない冬のプールの水は汚れにくい。日によっては、視力の良い遥奈は25メートル先もわずかに見通せた。

 今日も、一端潜って対岸を見つめる。くもり止めを塗った直後のゴーグルは、皮膚の弱い遥奈には少し刺激が強いが、それでもじっと目を凝らす。

 透明度、OK。今日も冷たくて綺麗。

 こんな日にだけ、ぼうっとしながら水に身を任せると決めている。

 遥奈が大好きなのは背泳だった。飛びぬけて、というわけではない。勿論クロールも、バタフライも、平泳ぎも好きだ。ここに居られるならターンだって飛び込みだってやる。それでも、背泳が好き、ということにしている。

 彼女が好きなのは、スタート。ただそれだけだ。水平に静まり動きを亡くしている水面に、先ず足から飛び込むのだ。飛沫の音が拡散する前に腕を伸ばし、バーをしっかり握り、膝を曲げて動きを停止。集中して。空気が凍り、そして耳に入る小さなスターターの声。

 「よーい」

 反射的に肘を曲げている自分に気づく間もなく、発信音、そして思い切りよく壁を蹴り、水中へ向かって飛ぶ。逆さまにだけれど、その動きは間違いなく飛んでいるのだ。

 そこで。遥奈はいつも夢幻を視る。目に飛び込むのは青。否、水色。エメラルドグリーン? 青の奔流と白の洪水と透明の膜。美しい沢山の気泡が自分を取り巻き、流されてゆくのが見える。真上には……自分と、空。

 初めて背泳のスタートをやった時は、何が何だか分からなかった。目の端を掠める自分の姿は幻だと思っていた。裏側から見た水面が鏡になっているのだと気づいたのは大分後のことだ。

 身体が浮上し、目の中に空や天井が重みを増してくると終わりだ。部活で見なれている天井を遥奈は愛していたが、それ以上のものではない。25メートルを全速力で泳ぐ。

 速く、対岸につきたいから。また夢幻が見たいから。

 ターンをすれば、また見れる。

 ただそれだけの為に泳ぎつづける。



*この文章は2002年9月10日に書かれたものです。

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