極論言えば人はどこまでも受動的である
人って極論言えば受動的にしか思考、行動できない生き物だと思う。
意志みたいな言葉があるように自分から踏み出して歩み始められる、
何かを見出して意味や価値を定められることこそ人であるみたいな。
そんな感じをイメージする場合も多いと思うのですけど、
脳やそこから生まれる思考の性質を考えると、
そういうイメージは実像をあまり捉えていない。
と言うのも、まず思考と一口に言っても実際には大きく2種類ある、
僕は意識、無意識と呼んでますが両者が同時に、
だけど分かれて自身の中にある。
意識は想像力、あるきっかけを起点にしてそこから考えを飛躍させる、
それは未来や五感で捉えられないもの、抽象的、概念的な実像ないものなど。
様々なものを心の中に生み出す、例えば神話、神という概念は、
想像力あるが故に生まれた典型例でしょう。
日本の太陽の神である天照大神のように自然にあるものを起点として、
超越的な存在を時に擬人化などして描き出すことができます。
対して無意識は過去の蓄積から思考を形作る。
遺伝子から引き継いだ生来的な特徴、生まれた環境、育てられ方、
学び、知見、経験など様々なものを徐々に蓄積させていき、
それによってある種のシステムを構築するのです。
そのシステムが外界から刺激を受けてさらに細かいプログラムを構築する、
受けた刺激に対してある一定の反応を示すことでそれを発露する。
例えば感情もそう。
ある刺激を受けてそれを楽しむか、悲しむか、怒るか、
失敗した時にそれを厭うか成長の機会などと喜ぶかなど、
何を感情として示すかはそれまでに何を蓄積したかによるわけです。
飛躍する意識、蓄積する無意識、向いている方向は真逆ですが、
起点となる何かが必要という点で両者は同じく受動的であり、
思考を起点として言動を発露する人もまた受動的だと言えます。
そんなこと言っても自分から行動してるように見える人もいる、
能動性が全くないというのは大げさすぎるのではないか?
そう思うかもしれませんし、それはまさしくその通りで、
大事なのはこの受動的な思考が2つ分かれて同時にあるところ。
言わば二重人格のようなもので人は個人という表面的なあり方の裏に、
自覚しやすい意識と意識が届かず結果から推測するしかない無意識。
2つの人格のようなものが互いに影響を与え合っているのです。
ようは、人は自分(意識)で自分(無意識)に刺激を与えることができる、
その逆もまた然りでこの2つの側面の循環が自他の影響に左右されない、
ある1つの意志を形作り最終的に言動に反映されます。
なので、自分の中できちんと思考を循環させている人は、
自他の影響からその時点では逃れられているという点で、
少なからず能動的な性質を獲得していると言っていい。
ですが、その意志が形作られるまでの過程を遡及していけば、
最終的には自分以外の何かの影響を見出せるのだと思う。
そういう意味で極論を言えば受動的なのですね。
で、このことがわかると例えばやる気とか興味関心みたいな、
ある物事に対して感情的に、衝動的に触れたくなる、
ある種の熱のようなものって今の自分にない場合。
絶対に勝手には生まれてこないことがわかる。
感情的、衝動的な熱は主に無意識によって生み出されるものですが、
先に話したように無意識は過去の蓄積による受動性を持つ。
故に今、やる気が湧かなかったり興味や関心を向けられないものに対し、
きっかけとなる刺激なしに自分から熱を生み出すことはできない。
生み出すには意識的な側面によって熱とは関係ない方法で、
外から何らかの刺激を引き込むことが必要なんですね。
逆に今、絶望してる人が希望的な未来などを見据えることもできない、
今の自分の過去の蓄積の中に、蓄積に対する認識や解釈の力に、
希望的な想像に飛躍させる要素がないからです。
故に、こういう時もまた意識、想像力とは関係のない無意識の熱などで、
外から何らかのきっかけを引き込むことが必要になります。
自分の中で思考を循環させる、必要であれば外から刺激を引き込む、
引き込んだ刺激を起点としてまた思考を循環させる。
そうして徐々に他の誰とも違う思考の形、意志の形を作っていく、
それが自我と呼ばれる個人としての軸となるのでしょう。
で、こういう思考の循環や個人の軸を形作るうえで、
一番邪魔なのが自分は自分という意識なのだと思う。
自分に対し迷いや葛藤がない状態に陥ると思考の循環も起きない、
自制や自省、自らを制し省みる力が失われるからです。
結果、あらゆるものを無条件に引き入れて流され続けるか、
逆にあらゆるものを排して今の変化せず固定化された自分を、
ただひたすらに主張し押し付けようとするか。
何かに流される、何ものにも流されない、どちらも自分以外の、
何らかの刺激に完全に依存しているという点では変わりない。
皮肉なことですが自分は唯一無二の存在だと思うほどに、
人はあらゆるものに影響される受動的な存在になってしまう。
なので、もし能動性、それが完全な能動性ではないとしても、
少しでも自分の意志で人生を歩みたいと思うのであれば、
人は根本的には受動的であるということをまず受け入れる。
そのうえで、思考の循環を通じて自分らしさを模索していく、
この順序はきちんと把握しておくことが大事に思います。
では、今回はここまでです。
ありがとうございました。