エピソード6|I have a black dog.
自分を切り売りしている感覚が拭えない。深い悲しみ、僕しか知らないはずだったもの。
笑っても泣いても怒っても幸せになっても消えない胸に残り離れない深い絶望を伴った悲しみ。それはあの日母親に階段から突き落とされたとき、父親に馬乗りになって殴られたとき、中学校でマイクを持った男子に卑猥な暴言を吐かれて死ねと言われたとき、体育の授業中にクラスメイトの女子達に体操服を脱がされて抵抗したとき、部活でペアになった先輩にバイ菌扱いされてテニスコートで手を拭かれたとき、顔にホットプレートを投げられたとき、顔にボーリングの球を投げられたとき、何度も犯罪に巻き込まれたとき、何度も一人ぼっちになったとき。もっともっと何百種類もある悲しみは、全部全部笑って話せるはずがない、自己紹介で笑って話せるはずがない、僕に沈殿した悲しみのはずなのに。
私にはこんな過去がありました、あなたは? と笑って聞かれて「僕は……」と笑って自分の悲しみの一部を切り売りしてしまった。薄っぺらい言葉になって飛んでいった僕の言葉は本当に薄っぺらいもののように思えて、僕はこんな言葉に出来るような悲しみに支配されていたわけじゃないと思った。僕の悲しみは、本当に深く、暗く、文字にも言葉にも出来るけれど、言語として存在しないものだった。だけど僕はそれを言語にして切り売りしてしまった。自分のキャラクターの為に。
空しくなって、消えちゃいそうだった、薄っぺらくなって軽くなった悲しみの重量の分、存在が希薄になって宙に浮くようだった。身体が軽くなった、だけどそれは僕の存在が薄くなったと同じだった。深い悲しみが重力となって僕をこの世界に地面に引き寄せている。それが無くなってしまったら、無かったことになってしまったら、笑って話せるくらい軽いものになってしまったら、多分僕はこの世界との均衡を保てなくなって生きていけないだろう。だから、あの子が笑って話せる悲しみと、僕が語り得ない悲しみはきっと違う、僕の悲しみはもっと深い、言い表せない、直接口に出すと自分自身が傷付くようなものだった。
だから僕は作品に落とし込もうとしたのではなかったか。漫画や小説にして、吐き出したかったのではなかったか。他人に「僕も同じだ」と笑って話せるような種類の綺麗な悲しみではなかった。僕はもっと酷かったけどなと言えるような種類の黒くて汚い色をした悲しみだった。この世界にいる誰も、この悲しみは理解出来ない。僕しかわからない、だから僕しかわからないものを切り売りして他人に理解されようと思うのを辞めたい、僕はあなたたちと同じじゃない、そんな色の悲しみ知らない。だから語り得ぬものについては誰にも話さない。僕の悲しみは、僕が一人で抱えて生きていく。
「こゝろ」の先生のように……。