十年経ったら人のほうが ――連載「棋士、AI、その他の話」第1回
「十年くらいしたら人間のほうが強いんじゃないのかなと思います」
開幕前の記者会見で菅井竜也五段(当時)はそう語った。2014年、第3回電王戦。プロ将棋棋士とコンピュータソフトとの戦いは5対5の団体戦形式で行われた。前年の第2回では、大方の予想とは逆にプロ棋士側が敗北を喫した。特に最終戦、時のA級トップ棋士・三浦弘行八段が最強ソフト・GPS将棋に完敗した将棋は見る者に強い衝撃を与えた。三浦八段に明確なミスは一手もなかった。にもかかわらず敗れたということはつまり、純粋な将棋の棋力においてGPS将棋が三浦を上回っていることを意味していた。
翌年、有力な若手を中心に揃えられた棋士側には、もはや負けることの許されない背水の陣といった空気が漂っていた。その開催告知会見で飛び出したのが、冒頭の菅井五段の発言だった。彼は、「これからはコンピュータが強くなるという意見の方が多いと思う」と前置きして、それでも「十年後は人間のほうが強い」と述べたのだった。
当時の時点から見ても、それは無理のある予想だった。ざっくり言って、ソフトは1年前のバージョンに7割勝つペースで成長を続けている。それが急に止まってしまうような気配もない。対して人は、並大抵なことでは去年の自分に7割も勝てない。ましてやそれを年単位で達成し続けるなど、想像もできないほどの成長速度だ。つまり、人とソフトとの距離は離れていくばかりであり、近づき追い越すなど到底実現できない夢物語なのだ。
そんなことは、おそらく菅井にだってわかっている。
わかっていてなお言い放ったのだ。それは強がりでも盲目でもない、ただひたすらに純粋な信念だった。菅井は、人間の力を心底信じているのだと思う。たとえ「人はもうソフトに勝てない」という現実が目の前にあろうとも、「いずれ我々はソフトに勝つ」という希望を胸に抱えて前に進むことができる。それこそが人間の、棋士の力だ。
2014年3月15日、菅井は将棋ソフト・習甦と戦い、98手で負けた。
宮内悠介の短編小説『人間の王』にマリオン・ティンズリーという実在のプロチェッカープレイヤーが登場する。チェッカーはチェスをシンプルにしたようなボードゲームであり、その世界でティンズリーは無敵だった。活躍期間45年において敗北した対局は5つしかない。プロ将棋棋士の年度最高勝率が0.8545であることを考えても、これはほとんどありえないくらいの強さだ。彼は人類という枠から遥かに飛び抜けた存在だった。
そんな彼の生涯最強の相手が、コンピュータソフト・シヌークだった。
ティンズリーは世界で初めてコンピュータと対戦したゲームプレイヤーとなり、初めてコンピュータに敗北したゲームプレイヤーとなった。
最終結果は彼から見て4勝2敗34分。数字の上では勝ちではある。しかしそのことは実際、どうでもいい。重要なのは、ティンズリーとシヌークが“いい勝負”をした、という事実だ。誰と戦おうと勝利してしまう世界の中で唯一ライバルと呼べるプログラムに出会った彼は、いったい何を思ったのだろう。
GPS将棋に完敗した三浦八段は、後日このように語っている。
「GPSは指していて楽しい相手でした。自分より明らかに強い相手と指すという、将棋本来の楽しさを思い出させてくれました。もしも、どこか誰も知らないところでひっそりと対戦できていたら、どんなによかっただろうと思います」
電王戦終了後も菅井は独創的な振り飛車戦術を武器に棋界で活躍を続け、2017年にはついに羽生から王位のタイトルを奪取した。彼は人真似も安寧も良しとしない。将棋界有数の努力家であり、少数派といえる振り飛車の世界で今も数々の新手を発明し続けている。
現在、将棋ソフトの棋力はもはや人の手の届かぬ高みにある。ソフトは戦う相手ではなく自らを強くするための道具となった。勝ち続けたいのならソフト研究が必須となったこの時代で、菅井は何を語るだろう。「十年くらいしたら人間のほうが強い」と、今でもそう言い放ってくれるだろうか。そうであったら良いな、と私は勝手に思っている。その台詞を口にできるのは、おそらく世界で菅井だけだから。
参考文献
第3回将棋電王戦 第1局 菅井竜也五段 vs 習甦
https://www.nicovideo.jp/watch/so23061214
一手も悪手を指さなかった三浦八段は、なぜ敗れたのか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/35787
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