泣きながら、嫌々アスレチックに登った話
保育を学んで以来、たくさんの子どもと関わる中で、改めてあの時の自分はどうだったとか、そんなふうに振り返ることがある。
今日の話は、アスレチックに初めて登った日について。
小学校中高学年くらいだっただろうか、放課後に友達数人と小学校の校庭で遊んでいた時のこと。
大きなアスレチックがあったのだが、私は高いところが苦手で、他のみんなが楽しそうに登っている中、途中までは試みるもののやっぱり怖くて、私一人だけ登ることが出来ないでいた。
そこで、友達みんなに囲まれ、こんなことを言われたのを今でも忘れない。
「アスレチックに登れないと、大きくなれないよ」
「怖いからといって、逃げていたらだめ。登れるようにならなきゃだめだよ」
「頑張らないといけないんだよ」
何が正しいかなんてわからない頃(友達もまた然り、だけど)だったし、複数人に囲まれて、アスレチックに登れないことを責められ、ああ、登れない自分はだめなんだ、と思った。
そして、怖くてたまらなかったし、悔しくてたまらなかったけれど、泣きながら嫌々なんとか登り切った。
でも。
全然楽しくなかったし、嬉しくもなかった。
出来るようにならなくちゃいけない、と人に言われて、その恐怖心でやってみて、出来るようになったことは、自分の中の達成感には1ミリも繋がらなかった。
あの日の自分に、全力で伝えたい。
別にアスレチックに登れないことは恥ずかしいことでもなんでもなく、登れたからといって大きくなれるわけでもない。
登れない自分を責める必要は一切ないし、責められる理由も一切なかったのだ。
あの日の私は、アスレチックなんかに登れなくたって全然よかった。ただただ怖かった。全然、楽しくなかった。
子どもと接する際に気をつけていることにも、通じるものがある。
○○をやってみたい、出来るようになりたい、という気持ちは子ども本人が自発的に思うから意味があるのであって。
もちろん、大人が子どもに“出来る楽しさ”を教えたり、「やってみよう」の気持ちを引き出したり、あるいは「怖いな、出来ないな」のハードルを下げてあげたりすることは、子どもにとってプラスに繋がりやすく、大切なことではあるのだけれど。
だからといって、“やりたいかどうか”を一方的にこちらが判断してはいけないし、本人の意思を尊重することが何よりも大切であるということ。
そもそも、○○が出来ない子どもに対して「○○出来ないといけない」という働きかけはとてもネガティブであり、それを強いるようなことがあってはいけない。出来ないことを出来るようにするためのアプローチとしては、一番やってはいけない方法である。
また、一人ひとり子どもによってペースが違うし、その日その日で“やりたい”“出来るようになりたい”という気持ちの程度も変わってくる。
出来る出来ないの話にかかわらず、どんなことでも子ども本人の気持ちやペースが大切であり、それらを尊重した上で、子どもの背中を見守り、そっと押せるような存在でありたい、と思う。
一昔前には、そういったネガティブな言葉がけや指導方法が一般化していたと思うし、親や友達間でもそういう競争心とか、“出来ない奴はだめ”といったような関わり方が当たり前の日常として転がっていただろうと思う。
もちろん、未だにそういった関わり方を当然のように行っている保育士や教師等も、残念ながらまだまだいると思うけれど。
保育・教育職だけでなく社会全体がポジティブな雰囲気にならないと…とも思いつつ、ひとりの大人として、社会をつくる一員として、自分の行動が社会に繋がっていくと信じて、自分が出来ることを最大限やっていきたいと改めて思う。
子どもにとって、どんな関わりが心地よく、自分や周りの人を大切にしてもらえるようになるか、模索する日々です。