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ため息俳句 羊羹を食べながら

 もう、このブログにお立ちよりいただく方々の目のは明らかにのように、筆者の生活は形而上的にも、形而下的にもまことに小さな世界に生きているのである。

 そういう生存の在り方からみると、「俳句」を愛好するというのはいうのは、身の丈にあったお楽しみであると、この頃ようやくわかり始めてきたのである。身の丈というより、生活のサイズに合っているということだ。これからも年をとるのだが、ますますそのサイズは縮小してゆくだろうが、俳句はそれでも、自分のような他者との関係の薄い老人とっては多分「有用」だろう。言葉が己自身との対話にばかり消費されてしまうと、同義反復の循環になってしまう。しかし、この俳句形式というのは、そこから少し世界に言葉を放出できるパイプになる。それが、ちょろちょろ程度のものでも、大切かもしれないと、思うのだ。

 それに、もともと俳句は、どう見たって「大文学」とは言えない。いとも庶民的な顔をしている。
 
 数日前今頃になって村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を入手した。ピカピカの初版本である。古書店で1000円を切っていたので、値ごろだなと思って購入したのである。自分は村上さんの熱心な読者でもファンでもないのだが、主要な作品はほぼ目を通してきた。繰り返します、「目はとおして」きたのだ。だから、遅まきながら最新作も目を通さざるを得ないのである。
 買った以上、ページをめくって読んだ。たった本文10ページまでであるが。悠揚迫らずの書き出しである。それもそうだ、この先 655ページもあるのだから。そのあとに、著者の「あとがき」まである。こういうのを、「大文学」というのだと薄々感じた。
 昔、埴谷雄高という方がいて、『悪霊』という作品が有名だ。

代表作は、存在の秘密や大宇宙について語りつくさんとし、第一章が『近代文学』創刊号(昭和20年12月30日付)に掲載された大長篇小説『死靈(しれい)』。全12章予定で未完作となったが幾度かの空白を挟み書き続け、死の直前まで第9章までを書き継いだ。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する世界文学史においても未曾有の形而上学的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。

埴谷雄高 - Wikipedia

  自分は、いつでも9章まですべて読むことができるよう、今も書棚の目につくところに置いてあるが、もうとっくに読了をあきらめている。だが、今より大いに若かったころの自分は、内容よりも、悪霊の文体に魅せられていたという記憶がある。難解極まりないのだが。こういうのも「大文学」であると、畏敬の念を持ち続けている。

 そこへ行くと、俳句は手のひらサイズである。いや、一口サイズか、この短さなら句舌の上で転がしてみることができる。・・・・・、我ながらそう言ってしまって、・・・・・、単純に長短を云っているとも云えるし、それだけのことではないという気もする。

 ところで、羊羹だが、この頃好物になった。
 子どもが帰省する時の土産でうれしいのは、「Tや」の羊羹でこのサイズががいい。隠居の手慰みのお伴であるから。
 そういえば、「おーい、お茶」といっても、我が家では出てこない。お茶もコーヒーも自分で淹れるの他ない。
 

句作りや渋茶羊羹ようかん秋の風  空茶


 真摯に俳句に取り組まれている方々には、拙文に失礼と感じられる箇所があるとすれば、お詫びいたします。