ため息俳句 米
昨年の暮れのことだ。
近隣のJAの農産物直売所で、米の10パーセント引きセール。我が家の経済を取り仕切る妻は、おっとり刀で駆け付けたのだが、果せるかな、一番価格が手頃な銘柄はきれいさっぱり売り切れていて、手の届かない他県のブランド米だけしか残っていなかったと、残念無念と報告するのであった。
老夫婦二人、幸い明日食う米に困っているというわけでない。むしろ、むこう数か月の米が備蓄されている。それでも、妻はもっともっと米を確保したいのである。
それには、行く先のお米の値段がどこまで高くなるか予測できないという不安があるのだろう。
家計を預かる者は、この物価高に神経をとがらせていること、かくの如しである。家人が特別ではあるまい。
つい最近も立ち寄ってくれた知り合いに、コーヒーを出すと、やっぱり豆を挽いたのは、インスタントとは違いますねと、苦笑された。その人の家は、近頃インスタントに切り替えたのだそうだ。
我が家が常用する豆が、大手メーカの一番安価なものであるが、それは当初200g入りであったが、今は150g。包装は同じであるから、中身がすかすかになった分ガスを詰められて、風船の如くに体裁が整えられている。勿論、値段も上がった。この豆も、月一度のセールの時にまとめ買いしている。
昨年来のニュースは、103万円の壁について自民公明と国民民主が調整。でもねえ、この103万円の壁の高さも厚さも、政治家や官僚が計算する壁と本当に最低賃金ぎりぎりで日々を追い立てられている「民」の目の前に立ち塞がる壁と同一視できないだろう。
とにかく、「民」はこの物価高とりわけ米価高に対していかに生き抜くか、知恵を絞っている。このことを、心から実感できている人が為政者の側にどれだけいるか、そう多くはおるまい。
年が明けて妻は気をもんでいる。
地元の馴染みの銘柄が店頭から消えてしまったのだという。おいしいといわれるブランド米ではなくて普段使いの米と云うか「民」の手が届く価格米がである。つまり、妻同様に生活防衛に気を抜けない人々が沢山いるということだ。できるだけ一円でも安いうちに買い置きしておきたいのである。
もちろん生産者にしてみれば、これまで米価が安すぎたのだというだろう、確かに親しい米農家の知人からそういう嘆きがずっと聞こえていた。
が、それなら少しは潤ったのかと先ごろ会った際に聞いてみると、昨年の異常気象で収量が大きく減少したという、害虫と水不足。知人の村ではどの田んぼも軒並みやられたという。多少の値上げも相殺されて、がっかりしたと。
そういう真面目に働く零細な農家に政府はどんな対応をしているのか知らないが、知人は政府の農業政策をまったくの糞だと吐き捨てるように言った。
散歩に出れば荒草の耕作放棄地が一面に広がっている。多分税金も投入しただろう耕地整理の行き届いている田んぼである。これとて好きこのんで放擲しているわけではなかろう。それはそれで窮状であるはずだ。
先行きの値上がりが不安だと買いだめをする、「なんと愚かしい」というのは、どこの誰だろう。
コロナ禍初期のマスク不足の騒動、あれはなんだった。それに対しての「あべのマスク」配布、あんな頓珍漢な対応しかできないこの国で生きるには、まずは己と己の家族を守ることに専心する「民」の姿を笑うことなどできないのだ。
豊葦原瑞穂国の米価高 空茶