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ため息俳句 紙魚
段ボール6箱の本が、先ほどS急便の若者に運ばれていった。段ボールひと箱にどのくらいの量が入ったか数えないので分からなかったが、自分には到底持ち上げられない重量であった。それをしかっりと両の手だけで持ち上げて、車まで運んでいた。さすがに、5箱目あたりで、息が上がってきたような感じがあったが、礼儀正しくてきぱきと仕事をしてくれた。頭が下がる。
6箱には小説と文庫と若干の人文書が詰められた。いったん詰め終わって、もう一度買い取り業者のHPを見たら、バーコードのない本は買い取り除外だと、書いてあった。不注意にも見過ごしていた。そこで、点検、バーコード無しをはねて詰め直すのに手間取って、・・・・昨晩は疲れ果てて、この愚ログも、休みとして、早く寝たのだ。
さて、話は変わるが、「紙魚」という昆虫が確かにいるのだそうだ。古本にとりついて本を食う虫である。
「紙魚」と書いて、読み方は「シミ」。体形が魚に似ていて、紙を加害するため「紙魚」や「衣魚」とも呼ばれます。知名度は低いものの、意外と出現率の高い虫です。湿度の高い場所にも出現するため「湿虫」と呼ばれたり、銀色の鱗のようなもので覆われていてキラキラ光ることから「雲母虫(きららむし)」「きらむし」「箔虫(はくむし)」等と呼ばれたりすることも。欧米では英語で「silverfish(シルバーフィッシュ)」というかっこいい名前が付いています。
こやつは、ゴキブリ以前にすでにこの世に棲息した原始生物らしい。であれば、いかに人間が貴重とする書画書籍であろうとあるまいと、ムシャムシャ食べつくしても、生物界の大先輩であるから、文句も言えない気がする。
こんな句があった。いかにも一茶らしい。
逃る也紙魚(が)中にも親よ子よ 一茶
それに、この句。
なりはひの紙魚と契りてはかなさよ 富田木歩
富田木歩(とみた もっぽ)という人はこんな人であるという。
本名は一(はじめ)。2歳の時、病気で両足の自由を失う。小学校にも行けず、「いろはがるた」や「めんこ」などで文字を覚えたという。度重なる洪水被害や父の死去などにより生活が困窮。生活苦の中、俳句誌「ホトトギス」を知り投稿を始める。最初の俳号は「吟波」。木製の義足を作って歩こうとして失敗したことから、のちに「木歩」と号するようになる。
大正4年(1915)自宅に「小梅吟社」の看板を掲げ、近所の俳友と句作を楽しむようになる。「やまと新聞」の俳壇の選者・臼田亜浪に師事。同6年(1917)俳誌「茜」を主宰する同い年の新井声風と知り合い、生涯の友となる。俳句界での存在が確かなものとなっていった一方、結核で弟・妹を相継いで失い、自身も感染する。両足の不自由に加え、結核の苦しみにあえぎながら、句作、評論で活躍。『木歩句集』、『一人三昧』などを発表。
27歳で亡くなるまでにおよそ二千の句を作った。
さらに墨田区立図書館の紹介を読むと、木歩は「本所区向島小梅町(現・向島3丁目46番)の鰻屋に生まれる。明治40年(1907)、同43年(1910)の洪水や父の死去により、生活が困窮。一家は向島近辺を転々とした。」とある。
そうした中で、「平和堂」という貸本屋を営んでいたという。
そうすると、上の句の「なりはい」とは正業のことだから、日々貸本屋で店番をしていた自分を、「紙魚」とともに生きる身とと云うたのだろう、と推察する。なんと、「はかない」ことだ。
その紙魚の食害を防ぐのにラベンダーの香りが効くという説がある。
さて、さて、まだまだ、書棚を広く使うまでには、何回かS急便のお兄さんの世話になるしかない。どこか断捨離気分が萎えてゆくような感じがしてきた。
我もまた湿り顔なり紙魚に似む 空茶
追記・生成AIのラベンダーは、下手ぴーだ。