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ため息俳句番外#41 子を抱きて・・。
河野裕子
子を抱きて
ねむくなり重たくなりし子を抱きて灯あかりやはき隣室へ移す
河野裕子歌集「季の栞」からの一首。
BOOK OFFという古書店で、詩集歌集句集のワンコインで買えるものを集めた時期がある。そこで、幸運にも手に入れた歌集の一冊である。
二〇〇四年十一月の刊行、この歌人の第十一歌集。「あとがき」をみると、五十代の終わりにさしかかったころであるのが、わかる。
この歌は、初出一覧では『祝いの歌』朝日新聞刊二〇〇一年四月、初出とある。『祝いの歌』で検索すると、ネット上では確認できない。もしかすると翌年、同出版元から刊行された本に『祝いの歌祝いの句』というものがあって、そちらかとも思わせられるが、ここではそれは問題にしない。
初出についていうのは、歌集への収録が一首単独であるからだ。これ一首で世に出ているのだろう。歌集でも、他はすべて頁辺り三首組まれているが、この一首だけは、頁の中央に一行で刷られている。
そういうことで、目につきやすいというより、作者には特別な意味のある歌なのかもしれない。なんと言っても、初出の現物がないので、憶測のみである。
そんなことより、よい歌なのだ。自分は男で父親であるのだが、こんな場面は、身に覚えがある。抱いた子供のあたたかな重みを、こんな爺さんになっても憶えている、いや憶えていたい。
まして、母である人の立場から見ると、もっと深い喜びを感じとれる一首であろう。
だれにでも、わかるほどわかる。そこがすばらしい。平凡な子育ての日常の一コマである。だが、幸せの一つの典型というのは変だが、そういう感情をよく言い表わしている。「祝いの歌」である。
さて、日常を平易なわかりやすさで表現するというのは、実はそう簡単でないような気がする。日常を単調な繰り返し、退屈なものと感じやすいが、実はそう見える日々こそが生きるということだろう。
この歌でも、眠くなった子を隣室に抱いていって寝かしつけるとうことだが、この一連は案外子育てにはひと手間もふた手間もかかるものだ。眠たくなると子はぐずりだすものだ。ぐずる子は、時と場合によると面倒なこともある。ようやく寝てくれる、ようやくほっとできる。これから少しは自分の時間を持てる、家事もすませられる・・・・、そういうことのあるのが日常である。そうしたこともこの歌から思い出すことができる。
句でも、歌でも、一行の意味を謎解きの問題のように提示するのは、自分はこのごろなじむことが出来なくなってきた。